霧のおばけ ミル
むかしむかし、まだこの森に「まよい森」という名前がなかったころ。
夜の雨があがったあと、山あいの木々のあいだから、白い霧がゆっくりと流れてきました。
霧は、朝の光を受けてふわりとふくらみ、やがて、ひとつの形をつくりました。
それは、ちいさな子どものような、風のかたまりのような……
まだこの世に生まれたばかりの存在。
それが、森でいちばん最初に生まれたおばけ、ミルでした。
ミルは、あたらしい世界をきょろきょろと見まわしました。
木々は高くそびえ、葉っぱはしっとりと雨のにおいを放ち、鳥たちは、まだ寝ぼけた声で鳴いています。
けれど、どこか静かでした。
音があるのに、声がない。
あたたかいのに、胸の中がひんやりしている。
ミルはふと、自分の胸のあたりに手をあてました。
なにかがぽっかり、あいている気がしたのです。
そのとき、どこからか「ぽちゃん」と音がしました。
木の根もとに、小さな水たまり。
雨のしずくが落ちて、ひとつの輪を広げています。
ミルはしゃがみこみ、水面をのぞきこみました。
そこには、うっすらと自分の顔が映っていました。
けれど、霧のせいで輪郭がゆれて、はっきりとは見えません。
ミルは、少しだけ悲しい気持ちになってつぶやきました。
「わたしって……だれ?」
けれど、返事をする者はいません。
ただ、風がすこし吹いて、水面が波立つだけでした。
その風が通りすぎたあと、ミルは胸の奥に“なにか”が芽生えるのを感じました。
それは、さみしさであり、そして、はじめての「心」でした。
ミルは立ちあがると、霧の指で木の枝をなでてみました。
しゃらん、と葉っぱが鳴ります。
音は小さいけれど、森の空気がすこしだけ動いた気がしました。
もう一度なでると、またしゃらん。
その音にあわせて、どこかの花が小さくゆれました。
ミルは何度も、何度も枝をなでました。
しゃらん、しゃらん。
それは、まるで歌のようでした。
やがて森の奥で、だれかが小さくこたえるように、
木の葉がふるえ、苔の下でちいさな芽が顔を出しました。
「……あれ?」
ミルはその芽を見つめました。
それは、夜のしずくをあびて、ゆっくり光りはじめました。
ミルは胸があたたかくなるのを感じました。
「そっか……」
「“さみしい”って、だれかを見つけたいってことなんだ」
ミルはその夜、森を歩きながらたくさんの音をさがしました。
木の皮をなでれば、とくんとくんと心のような音がして、葉をゆらせば、しゃらんと鈴のような音が返ってくる。
そのひとつひとつが、まるで森と話しているみたいでした。
“わたし、ここにいるよ”
“あなたも、ここにいるんだね”
そんなふうに。
夜がふかくなると、霧がさらに濃くなりました。
ミルの体はだんだんと透けて、光の粒のようになっていきます。
けれど、消える前にもう一度だけ、木の枝をなでました。
しゃらん。
その音は森の奥までとどき、まだ眠っている種たちの夢の中に、やわらかく響いていきました。
森の木々が、ひそやかにざわめきます。
まるで、
“ようこそ”
と、言っているようでした。
霧はゆっくりと森のすみずみにしみわたり、朝の光が少しずつ差しこみはじめました。
その光の中で、ミルはすうっと消えかけながら思いました。
「いつか、わたしの声をきいてくれるひとが、来るといいな」
そう願って、霧の中にとけていきました。
そしてその祈りが、森の空気のどこかに残って、のちに“まよい森”と呼ばれるこの場所の、いちばん最初の心の鼓動になったのです。




