初恋が終わった部屋 あの人は姉ばかりを見ていた
ノルド城の離れ――
薄いカーテン越しに午後の光が差し込み、三姉妹の部屋は静かな温もりに包まれていた。
ウイは刺繍の手を止めて窓辺に立ち、レイはその背中を見ながら本を読んでいた。
そのとき、廊下の先で足音が止まった。
扉が、静かにノックもなく開いた。
「・・・母上? ゴロク様」
思わず立ち上がったウイの声に、レイも顔を上げた。
シリとゴロクが、並んで部屋に入ってきた。
ふだん離れにまで訪れることは、滅多にない二人の突然の来訪に、姉妹は驚き、言葉を失う。
「ユウは?」
シリが問いかけると、レイが首を横に振った。
「いません。さっき外に出ていきました。たぶん・・・馬場のほうだと思います」
レイの答えに、シリはそっと頷いた。
「そう」
「すぐに呼んで参ります」
乳母のヨシノが走り出した。
少しだけ視線を落とし、また顔を上げると、ふたりの娘の表情を見つめた。
「実は・・・会わせたい人がいるの」
シリの柔らかな声音に、ウイもレイも目を見張った。
ゴロクが扉の外に視線を送る。
廊下の先には、ひとりの青年が立っていた。
◇
深く頭を垂れたその青年が顔を上げたとき、
ウイは、思わず声なき声を上げた。
ーー素敵な人。
彼は、すっと背筋の伸びた立ち姿で立っていた。
陽の光を背に受けたその輪郭は、まるで物語の中の騎士のように美しかった。
淡く茶色の髪がさらりと額にかかり、凛とした眉と整った鼻筋。
なにより、黒曜石のような瞳が静かに輝いていて、見る者の心を射抜くようだった。
その瞳がふとこちらを向いた瞬間、ウイの心臓が大きく跳ねた。
顔が熱くなる。息が浅くなる。
彼の表情を見るたびに、胸が不思議と高鳴ってしまう。
ーーこれが、恋というものなのだろうか?
ウイは、自分の内側に芽生えた感情にただ戸惑うばかりだった。
頭ではどうにもならない心の動き。
それが何なのか、まだうまく言葉にはできないけれど、
ーーただ、もっと長く見ていたい。
そんな想いが、胸の奥でそっと息づいていた。
「初めまして」
リオウは柔らかく微笑んだ。
その笑みは人の心を和らげる、不思議な温かさを帯びていた。
「あなたたちにとって従兄弟にあたる方です」
シリが説明を添えようとしたそのとき――
廊下の奥から、急ぎ足の音と共に声が響いた。
「ユウ様、どうかお静かに。ゴロク様もご一緒ですから」
ヨシノの焦ったような声が聞こえる。
「わかっているわ・・・ただ、馬を見たかっただけなのに」
不満げなその声音は、廊下に響き渡り、部屋の中まで筒抜けだった。
そして次の瞬間、勢いよく扉が開かれた。
風が舞い込むように、ユウが部屋に入ってきた。
ーー空気が変わった。
その場にいた誰もが、それを感じた。
カーテンがふわりと舞い、光が一段と差し込む。
その光の中に、ユウがいた。
ユウが扉を開けた瞬間、リオウの胸が高鳴った。
先ほど厩で出会った少女――いや、少女ではない。
その立ち姿、その目の光、その声の余韻。
すべてが、忘れられなかった。
そして今、再び目の前に現れた彼女は、やはり――美しかった。
柔らかい金の髪が風に揺れ、青い瞳には芯の強さと好奇心が同居している。
戸惑いながらも真っ直ぐに向けられる視線に、息をするのも忘れそうになる。
その瞬間、ユウが小さく目を見開き、呟いた。
「・・・あなたは、さっき」
あのときの声が、夢じゃなかったと教えてくれた。
ただの偶然だったはずの出会いが、再びこうして巡ってきた。
ーーまた会えた。
リオウの心は、その喜びに満たされていた。
――この城で、もう一度会えるとは思わなかった。
リオウは心の奥底で、密かにその偶然に感謝していた。
恍惚とした眼差しが、彼の本心を雄弁に語っていた。
リオウは、まっすぐにユウを見つめた。
「ええ。先ほど・・・厩でお逢いしましたね」
その声は、抑えているつもりでも、どこか熱を帯びていた。
まるで、ユウとの出会いが彼にとってどれほど特別だったかを、隠しきれずに滲ませてしまったかのようだった。
その一言が、ウイの胸に突き刺さった。
ーーそんな声で、自分には話しかけなかった
リオウの視線が、微塵の迷いもなく姉を捉えている。
まるで、部屋の中に自分とレイが存在していないかのように。
ユウは戸惑った表情を浮かべながらも、自然にリオウに向き合っていた。
ふたりの間に流れる、言葉にできない気配。
ウイには、それが何よりも堪えた。
ついさっきまで、彼の姿を見て胸が高鳴っていたのに。
その鼓動が、今は痛みのように響いてくる。
ーーあのひとは、姉上を見ている。
そう理解してしまった瞬間、ウイは小さく肩をすくめた。
息を潜めるようにして、その場に立ち尽くす。
それでも、視線を逸らせなかった。
見つめるほどに、どうしようもない現実が胸に刺さる。
ウイはただ、静かに――
自分の初恋が終わった音を、
心の中で、確かに、聞いていた。
それは、誰にも聞こえない、小さな終わりの音だった。
ーー次回
ノルド城に、新たな訪問者。父の血を引く青年――リオウ。
三姉妹との対面、交わされるまなざし、そして誰もが気づかぬうちに、物語は静かに動き出す。
少女はまだ知らない。
その出会いが、自らの運命に影を落とすことを。
――扉の向こうへ歩み出す、その足音が、冬の気配を連れてくる。
明日の20時20分更新予定
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
おかげさまで累計10万7千PV突破!
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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