触れた指先、揺れる想い
早朝稽古の後、シュリは、自分の手の甲をじっと見つめていた。
稽古場では、今朝もジャックとノアの声が響いていた。
けれど、自分の耳には、ユウの指先の感触ばかりが残っていた。
けれど、その温もりは、心に届く前に、立場の鎧に弾かれてしまう。
胸の奥で、鈍く、重く、何かがうずいた。
ーーあんなこと・・・していただく立場ではないのに。
シュリは、あの日のことを思い出していた。
ユウの髪飾りを見たとき、言葉が出なかった。
美しい、と。そう言えばよかった。
でも口にした途端、何かが変わってしまいそうで――怖かった。
ーーユウ様に恋などしてはいけない。
いや、そもそも、これは恋なのか。
尊敬かもしれない。憧れかもしれない。ただの忠義かもしれない。
なのに。
「似合ってますか?」と尋ねられたとき、
自分の胸が跳ね上がり、思ったことが言えなかった。
ーー気づかれてしまっただろうか。
頬が熱い。
手も熱い。
ユウはいつも無邪気な顔をして、真っ直ぐに迫ってくる。
それが、何より苦しかった。
ーーユウ様・・・私は、どうしたら。
自分の立場も、心も、まだどちらにも決めきれずに、ただ風の中に揺れていた。
シュリが訓練から戻ると、廊下の隅に妾のフィルがいた。
窓の光に透ける髪が揺れている。
黙って、通り過ぎようとしたら、
「好きなんでしょ、あの姫様が」
唐突な言葉に、シュリは足を止めた。
けれど、否定はしない。
黙って、視線を落とすだけ。
フィルは嘲るように笑ってみせた。
でも、その声はどこか不安定だった。
「惚れても無駄よ。あの子は・・・姫である前に、『領主の娘』なんだから」
言いかけた言葉を、彼が遮る。
「知っています」
静かで、けれど芯のある声だった。
その返答に、フィルは思わず息をのむ。
ーーなんでよ。なんで、そんな顔するの。
知らないうちに、指先がぎゅっとスカートの布を掴んでいた。
シュリは黙って、通り過ぎた。
廊下の隅でひとり残されたフィルは、しばらく立ち尽くしていた。
見えなくなった背中を追うこともせず、ただ唇を噛んでいた。
◇
それから1時間後ーー
東門に、ひとりの青年が辿り着いたという知らせが入った。
名は、リオウ。
コク家の再興を願う者。
セン家の血を引きながらも、いまはその名を背負わず、風のように各地を渡ってきた。
長身でしなやかな体躯。
やや茶の混じった滑らかな髪は陽を受けて淡く光り、
黒に近い深い瞳には、穏やかさを讃えている。
粗末な旅装のまま、彼は馬を降り、ノルド城を見上げた。
その目に宿るものは、憧れか、決意か、それともーー。
まだ、誰も知らない。
けれど、彼の到着を告げる報せに、
ほんのかすかに、風向きの変化を感じていた。
やがて少女たちの運命に、ひとしずくの影を落とすことになるその存在が、
今――城門をくぐろうとしていた。
◇
同じ頃、シュリとユウは厩にいた。
シズル領の馬は、どれも名馬と呼ばれるにふさわしい。
「こんなに良い馬が揃ってるのに・・・」
ユウが、ふっとため息をこぼす。
「この城に来てから、一度も乗っていないわ」
「春になれば・・・」
シュリの返事は短く、冷たい風にさらわれていった。
もうすぐ冬が来る。
「残念だわ」
ユウはツヤのある馬の首筋を撫でながら、何かを我慢するように笑った。
その様子を、シュリは横目で見て、すぐに視線を逸らす。
次の瞬間、ユウが一歩、近づいた。
「シュリ。私のこと、避けてる?」
「・・・避けてなどいません」
「じゃあ、なんで目を逸らすの」
答えられない。
見つめたら、溢れてしまいそうだった。
その顔、その瞳――あまりにも綺麗で、触れたくなるほどに。
「それは・・・」
かすれるように、声が途切れる。
「シュリ?」
ユウの声が、少しだけ怒っていた。
顔を上げたシュリは、目の前にある瞳に、言葉を失う。
まっすぐに、自分を見つめるその眼差し。
――美しい。
惹かれないわけがない。
シュリは何も言わず、ただ瞳に想いを乗せてユウを見つめる。
ユウはその視線を受けて、ゆっくりと頬を赤らめた。
何かを言おうとして、けれど、やめる。
そして、再び口を開いた。
「・・・そんな風に見つめられると」
「え?」
「見つめられると、変なこと言いそうになるのよ」
ユウは冗談のように笑ったが、その目は少しだけ潤んでいた。
ユウの視線が、シュリの頬をそっとなぞるように動いた。
まるで、言葉では伝えられないものを確かめるように――。
厩の奥で、馬が静かに鼻を鳴らした。
風のないはずの空間で、心だけがそっと、揺れていた。
ーー次回 今日の20時20分に更新します
厩に響いたのは、初めて出会う三人の静かな時間。
まっすぐな視線に揺れる心。
そして、似た面影が、過去と現在を静かに結び始める。
ブックマーク、ありがとうございます。
読んでくださる方がいること、本当に励みになります。
今夜も更新します。
===================
この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
おかげさまで累計10万6千PV突破!
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
===================




