表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
85/267

骨抜きの微笑

ミンスタ領 シュドリー城


城の会議室に入ってきたゴロクは、珍しく機嫌が良さそうだった。


顔色もよく、頬はわずかに紅潮し、口元には微かな余裕が滲んでいる。


ーーなんだ、その顔は。


対面の席にいたキヨは、無意識のうちに手元の文に力を込めた。


あれほど無骨で、険しい表情しか見せなかった男が、いまやまるで――


ーー湯上がりの老人のようだな


毒づきそうになり、唇を噛んで言葉を飲み込む。


「おはようございます、ゴロク殿。ご機嫌麗しゅうございますな」


「うむ。最近は、ようやく眠れるようになった、というべきか」


その一言に、キヨの目が細まった。


ーーようやく、か。


それは明らかに、妃となったシリとの生活が影響していると暗に語っていた。


だが、ゴロク本人はそんな含みも気づかぬような、年寄りらしい素直さで頷いている。


ーーまさか本気で・・・惚れたのか?


キヨの胸に、ひやりとした違和感が走った。


ただの政略だと思っていた。


ただの「安定の象徴」「国政のための駒」――そうとしか見ていなかったはずの女に、

この男は、いつのまにか「心」を持っていかれているのではないか。


ーーあの方と、ともに夜を過ごしているのか? あんな年寄りなのに!!


思わず、キヨの喉元に小さな苛立ちがこみあげた。


「お疲れのご様子がないのは、何よりですな」


「いや、少々・・・張り切りすぎてな」


ゴロクがまるで冗談のように笑った瞬間、

キヨのこめかみが、ぴくりとわずかに動いた。


ーーツヤツヤしおって。


その顔を見ていると、奇妙な苛立ちと、胸の奥を押さえつけられるような悔しさが湧いてきた。


――誰に? なぜ? 自分でも説明のつかない感情だった。


それでも、キヨは冷静を装って微笑んだ。


「ゴロク殿が元気でおられるのは、民にとっても喜ばしいこと」


そう言いながらも、机の下で握る拳には、確かな力がこもっていた。



「・・・あの顔を見たか、エル」


キヨは机の上に文書を放り出し、重たげに椅子の背にもたれた。


窓の外は、夕日が斜めに差し込む時間。


会議を終えて、ようやく人目を気にせず言葉を漏らせるひとときだった。


「ゴロク様の顔ですか?」


エルが静かに返す。


その口調は淡々としていたが、キヨの苛立ちを察していた。


「・・・まるで恋に浮かれた若造のようだったぞ。あの年で、あんな表情をするとはな」


「シリ様が来られてから、ゴロク様の顔つきが和らいだのは、確かに」


「和らいだ、じゃない。骨抜きだ。骨の髄まで、シリ様に!!」


声が大きくなりかけたのを、自分で気づき、キヨは息を止めた。


――なぜ、これほど気に障るのか。


自分でも、答えが出せなかった。


拳を握り締めたまま、視線を逸らす。


エルは黙って、机の上の茶を入れ直した。


その沈黙が、キヨの胸のざわめきを煽る。


「・・・シリ様は、そういうつもりではいないだろう。まだグユウを想っているはずだ。

それなのにゴロクは、まるで子供のように。毎晩、通っているのか?」


キヨの口調は、皮肉にも似た怒りをはらんでいた。


「ご夫婦になられたのです。それも当然かと」


エルは静かに言った。


シリのことになると、キヨは心が乱れる。


弟として、どうするべきか。


思案していた。


キヨはその言葉に目を細めた。


「・・・ならば、あの男の心など、早く見限ってくれればいい」


小さな声だった。


けれど、それは願いにも呪いにも聞こえる、沈んだ声だった。


――あの方の心が、自分に向くはずもないと知っていながら・・・なぜ、これほどまでに焦がれるのか。


自分でも、その答えは見つけられなかった。



その言葉を聞いて、エルはピクリと動きを止めた。


ーーまさか。まさか兄者は。


悔しそうに顔を顰めているキヨの顔を見て、エルの心は争いが近い予感を感じていた。



翌朝、ミンスタ領の宿舎 


朝の光が斜めに差し込む部屋で、キヨは窓辺に立っていた。


その背に向かって、弟のエルが慎重に口を開く。


「兄者・・・おはようございます」


今朝は、ワスト領へ戻る予定となっている。


けれど、キヨの背は微動だにせず、ただ外を見据えている。


ーー何を考えておられるのだろう。


エルがもう一歩近づこうとしたその瞬間、

キヨが勢いよく振り返った。


「エル。決めたぞ」


その声は、朝の静けさを裂くかのように響く。


「わしがゼンシ様の告別式を行う。それが誰の記憶にも残るように」


痩せた顔に、不釣り合いなほど大きな目。

その濁った茶色の瞳には、不穏な輝きが宿っていた。


「・・・そうですか」


エルは思わず息をのんだ。

兄の瞳に宿るその光が、決して穏やかなものではないことに、気づいていた。


キヨは、すでに計画書を用意していた。


机の上に広げられたその紙束には、

招待者の一覧、式の演出、使用する音楽に至るまで、細かく記されていた。


「ゼンシ様の遺体はない。その代わりに、貴重な香木を彫り師に彫らせよう。

それを棺に納めて燃やすのだ。燃えると、良い香りが立ちのぼるぞ・・・」


キヨは陶然とした口調で語る。


その目はどこか夢見がちで、しかし底知れぬ野心を秘めていた。


「とにかく、目立つようにするのだ。誰の目にも、わしがゼンシ様を弔ったと映るようにな」


エルは黙って、その計画書に目を通した。


見事――そう思わざるを得なかった。


それは、ゼンシの名を最大限に利用し、民衆の心を掴むための壮大な芝居だった。


しかも、その舞台に、モザ家の血縁者は一人として呼ばれない。


「これは私的な弔いである」と謳いながら、重臣や領主、領民を巻き込む。


――モザ家を出し抜きながら、大義の面をかぶせ、

自分こそが後継者であると印象づけるための巧妙な仕掛け。


「11月の後半に行いたい」


キヨは計画の締めくくりとしてそう告げた。


エルは恐る恐る問いかける。


「・・・なぜ、11月なのですか」


キヨは窓の外に視線を向けたまま、ゆっくりと口を開いた。


「シズル領は冬を迎える。あの時期にミヤビで告別式をすれば、ゴロクは動けまい。

参戦できん。その間に、様々な仕掛けを整える」


そして、はっきりと、言い放った。


「ゴロクを滅ぼす」


エルの背筋が、凍りついた。


兄は――ゴロク様を滅ぼしたあとに、

その隣に座るのは、誰だと想定しているのだろうか。


ーーまさか、シリ様を・・・。


その問いを口にすることは、怖くてできなかった。


エルはただ、うつむき、計画書の字面に焦点を合わせるふりをした。

けれど、胸の奥では、ひとつの確信が冷たく芽吹いていた。


兄を止めることなどーーできやしない。



次回――

母の膝に甘えるレイ。その姿を見下ろすフィルの胸に、静かなざわめきが広がる。

恋しさと、知らず芽生えた感情。


明日の9時20分 あの子には、あの人の面影が

===================

このお話は続編です。前編はこちら お陰様で10万PV突破

兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。


▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/

===================

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ