眠れぬ夜、触れられぬ想い
夜風が、かすかに帳を揺らした。
その日最後の宿は、街道沿いの静かな館だった。
薄く敷かれた敷布の上に腰を下ろし、ドーラは疲れた足をそっと揉んだ。
馬での移動は骨にこたえる。
年齢のせいかしら、と自嘲するように笑って、ひと息ついた。
ゴロクは向かいの部屋にいた。
護衛のために通されたのは隣室ではなく、きちんと“間を空けた”部屋だった。
侍女のいない旅ではあるが、それでも部屋の構えは、どこか“慎ましすぎる”ように感じられた。
数刻後、戸が静かに開いた。
「・・・休めているか?」
低く落ち着いた声。
ドーラは反射的に立ち上がり、軽く頭を下げた。
「はい。お心遣い、ありがとうございます」
「・・・疲れているなら、早く休め」
「はい」
ほんの短いやりとりだった。
ゴロクは、まるで逡巡でもしているように、部屋の中には入ってこなかった。
帳の向こうに彼の影が見える。
けれど、その影はすぐに離れていった。
「・・・おやすみなさい」
そう一言だけを残して、足音が遠ざかる。
閉じられた戸が、乾いた音を立てた。
ドーラはしばらく、そのまま立ち尽くしていた。
触れられることを期待していたわけではない。
ただ、せめて同じ部屋に腰を下ろすくらいはあると思っていたのだ。
「・・・そういうこと、なのね」
ぽつりと呟いた声が、夜の静けさに吸い込まれていく。
ーーシリ様がいるから?
それとも、わたしでは心が慰められないと知っているから?
ゴロクの気配は、かつてよりもずっと柔らかくなった。
けれどそれは、自分に向けられたものではない。
妾であるという立場。
その限界を、あの背中が教えていた。
ーー情事がないと、こんなにも、夜は長いのね。
布団に身を沈めても、心だけが空をさまよっているようだった。
彼のまなざしが向く先に、自分がいないと知る夜は、
寒さではなく、孤独で眠れない。
◇
五日後。
シュドリー城の門が開かれ、ゴロクの一行がゆるやかに進んだ。
旅路の塵をまとったまま馬を下りると、玄関前にはすでにマサシが待っていた。
かつては少年だった彼も、今や堂々たる一領主。
年若い顔に鋭さを宿しながら、ゴロクに駆け寄ってきた。
「ゴロク! ずいぶん若返ったな!」
ぱっと笑って、肩を叩くマサシ。
その言葉に、ゴロクは目を丸くして、それから少しだけ照れたように頬を緩めた。
「いえ・・・そうでしょうか」
「そうとも。前に会ったときは、もっとこう、疲れた顔をしていたぞ」
「・・・あの頃は、色々ありましたからな」
静かに言って、ゴロクは目を細める。
その横顔に、昔よりも柔らかな気配が宿っていた。
ーーたしかに、表情が違う。
マサシはふと、そう感じた。
シリのそばで過ごす日々が、ゴロクに少しずつ“人のぬくもり”を取り戻させたのかもしれない。
「まあいい、まずは中へ。じっくり話そう」
「はい。お招き、痛み入ります」
年若い領主と、老練な重臣。
城の奥へと並んで歩くその姿は、どこか不思議に釣り合っていた。
ゴロクは客間へと通された。
シュドリー城の応接の間は、以前と変わらず華やかだった。
金の縁取りが施された椅子、窓辺には季節の花。
床に敷かれた絨毯は贅を尽くした東方の織物で、日差しが刺繍の糸に反射して柔らかく煌めいている。
「相変わらず、見事な客間で・・・」
ゴロクがそう言うと、マサシは得意げに笑った。
「父上の趣味さ。俺じゃこんな洒落た装飾は選べない」
腰を下ろすなり、マサシが尋ねる。
「で、シリ姉は元気か?」
「はい。・・・お元気です」
一瞬の間のあとに答えたゴロクの声には、かすかな寂しさが滲んでいた。
それを見て、マサシは少しだけ目を細めた。
「子供たちは?」
「大切に、お預かりしています。三人とも、元気にしています」
「・・・ユウは、手強いだろう。あいつ、小さい頃から気が強くてな」
ゴロクは苦笑を浮かべる。
「確かに。歯応えのある姫様で」
「俺も義理の娘にユウが来たら、と思うだけでゾッとするよ。シリ姉の血が濃いんだな、あれは」
二人の笑い声が、窓越しに差し込む光の中に溶けていく。
だが、談笑の余韻も束の間だった。
マサシの表情が、ふいに引き締まる。
「・・・本題だ。キヨの振る舞いが、目に見えて強くなっている」
ゴロクが顔を顰める。
「このままでは、モザ家の領土が乗っ取られる」
マサシは拳を握りしめる。
「断じて、キヨには好き勝手にはさせない」
しばし沈黙ののち、低く続けた。
「今のところ、俺の前では従順だ。だが――腹の中は読めない。あいつは表情を作るのが上手い。裏で何を考えているか分からん」
そして、真っ直ぐにゴロクを見た。
「ゴロク。・・・頼む。キヨに対抗できる力を持っているのは、お前だけだ」
ゴロクは頷いた。
「承知しました」
応接の間に、空気がわずかに張り詰める。
軽口を交わした二人の間に、今はもう、静かな覚悟だけが残っていた。
◇
シュドリー城の一室。
帳簿や式次第の案が散らばる机を前に、キヨは静かに言った。
「ゼンシ様の追悼式を、わしが主催するとしたら・・・」
夢見るように話す。
「兄者が・・・?」
エルが驚きの色を隠せずに問い返す。
「そうだ。長年お仕えした忠臣として、な」
「それでは・・・マサシ様や、ゴロク様、サトシ様をお招きしなくては」
当然のことのようにエルが口にすると、キヨは首を横に振った。
「いや。その三人には声をかけぬ」
「・・・え?」
「わしが主催するのなら・・・追悼式は、ミヤビの領民に向けたものにする。民の目の前で、うんと派手にやるのだ。
香を焚き、楽を鳴らし、金を惜しまず、飾り立てる。
『ゼンシ様の跡を継ぐのはキヨ殿だ』――そう、噂になるようにな」
「そ、それは・・・家中の他の者たちに、喧嘩を売るようなものでは」
エルの声にわずかに震えが混じった。
キヨは笑う。
だがその笑みに、冗談めいた柔らかさはなかった。
「それが、狙いよ」
「・・・え?」
「わしから手を出すわけにはいかん。だが、向こうから仕掛けてくるのなら話は別だ。
奴らに、『やる気か』と思わせる。内から煮えたぎらせて、勝手に燃え上がるようにしてやるのじゃ」
「兄者・・・!」
エルは思わず声を上げたが、キヨは肩をすくめ、軽く笑った。
「――これは、ほんの戯れだ。冗談、冗談」
言葉ではそう言いながらも、
キヨの目は笑っていなかった。
その目の奥には、冷えた火のような色が宿っていた。
エルは、その場から動けずにいた。
ーー兄者は本気だ。
本気でモザ家を乗っ取るつもりなのか?
それはただの政略ではない。
シリと、その娘たちの命運を、否応なく巻き込む火種でもあった。
次回ーー
稽古場で剣を振るうシュリを、遠くから見つめるユウ。
リネン室では、ウイと母シリ、そして妾プリシアが思いがけず心を交わす。
だがその静かな光の裏で――ミンスタ領では、対立を縫い付ける“もうひとつの布”が仕立てられていた。
見つめる目と気づいた横顔
===================
このお話は続編です。前編はこちら お陰様で十万五千PV突破
兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。
▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
===================




