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まだ知らない恋と、知ってはいけない想い



朝の訓練を終えたシュリは、厩の脇でバケツの水を頭から浴びていた。


汗と埃にまみれた体を、少しでも早く冷ましたかった。


「・・・そんなに冷たい水を被って、風邪をひくわよ?」


驚いて顔を上げると、いつの間にか女が立っていた。


淡い黄色の衣をまとい、弾けるような胸元を隠そうともしない女性――妾のひとり、フィルだった。


「・・・ゴロク様の」


とっさに言葉を選びながら頭を下げると、フィルは小さく笑った。


「違うわ。私はただの妾よ。あなたこそ・・・乳母子の、シュリ君でしょ?」


名前を呼ばれて、シュリは肩をすくめるようにして答えた。


「・・・はい」


「毎朝、がんばっているわね。あんなに叩き込まれても、逃げ出さないなんて立派」


「見ていたんですか」


「ええ。上の部屋から、ね」


フィルは涼やかな笑みを浮かべて歩み寄ると、手に持った白い布でシュリの額の汗をそっと拭った。


「!」


思わず後ずさろうとしたシュリに、フィルは困ったように首を傾げた。


「・・・あら、ごめんなさい。触れられるの、嫌だった?」


「・・・いや、ただ、そういうの慣れてないんです」


フィルはその言葉に少しだけ目を細めた。


「慣れてない、か。姫様を守りたいのなら、慣れなくてもいいけれど、強くなる覚悟は本物なのね」


「・・・守りたい、です」


「ふふ、言い切るのね。素敵だわ」


フィルは、わずかに色づいたシュリの頬を見て、いたずらをした少女のように微笑んだ。


「じゃあ、また見せて。あなたの訓練姿――」


そして背を向けると、軽やかに去っていった。


シュリはその背中を、しばらく呆然と見送っていた。




妾という立場で、男を値踏みすることには慣れている。


それなのに――あの子は、ちょっと違っていた。


あの子――シュリは、まだ子どもだ。


でも、どこか目を離せない。

背が高くて、黙々と頑張っていて、なのに愛想がない。


そういうの、案外嫌いじゃないのよね、


フィルは苦笑する。


好き、かどうかはわからない。


そもそも、男に恋をして苦労するのはもう沢山だった。


気まぐれで声をかけただけ。そう思っていた。


ーーでも、あの子は。


ユウ様のこととなると、まるで犬みたいに真っ直ぐになる。


その目が、声が、所作のすべてが姫様ひとりに向いていて――


ーーなんだか、つまらないわ。


ほんの気まぐれで微笑んでみせても、彼の意識は、きっとあの姫様に戻っていく。

それが、どうにも気に食わなかった。


あの子がユウ様だけを見続けるなら――

ちょっとくらい、揺さぶってみてもいいじゃない?


フィルはそんな思いを胸に、軽やかに歩み去っていった。

けれど、踵の裏には確かに、ふつふつとした好奇心と、ちいさな苛立ちが火種のようにくすぶっていた。



2人の様子をユウは黙って見ていた。


廊下の窓辺から見下ろせば、ちょうど厩の脇。


シュリが水をかぶった直後、フィルが近づいていったのが、遠目にもよく見えた。


フィルが何かを差し出し、シュリがわずかにたじろぐ――

その距離の近さ、仕草、わずかな空気の揺らぎまでもが、ユウの目にははっきりと映った。


ーー何を話していたの?


ただ訓練を褒めたのかもしれない。

ほんの挨拶だけだったかもしれない。


それでもーー面白くはない。



姫である自分と、妾であるフィル。

立場が違うとわかっていても、胸の奥に重く沈んでいく何かがあった。


姫育ちの自分とは違い、フィルは男の心を揺るがすのに長けているはずだ。


ユウはそっと唇を噛んだ。

風に揺れる金色の髪が頬をかすめる。


ーー私は・・・嫉妬する立場ではないのだ。


姫なのだから。


乳母子に妻や女ができたら、祝う立場なのだ。


そう、わかっているのに。


目を伏せても、心の奥で湧き上がるこのざわめきは、どうしても静まらない。


フィルの指が彼の額に触れた瞬間を、何度も思い出してしまう。

その時、シュリが少しだけ頬を赤らめたことも。


あれは・・・嬉しかったのだろうか。

まるで、自分の中の何かが、音を立てて崩れていく気がした。


ーーシュリの頬に、私も触れたことがあるのに。


そんな想いが、胸の奥からせり上がってきて、ユウは思わず唇を噛んだ。


噛み締めた唇の内側から、塩の味がにじんだ。


彼の視線が、自分ではなく、別の誰かに向けられるかもしれないという現実。


それがこんなにも痛いなんて。


もう、わかっている。


――胸が、こんなにも痛む理由を、私はもう知っている。


気づきたくなかった。


でも、今はもう、ごまかせない。


けれど。


「姫」である自分が、口にしていい想いではない。

誰かに告げることなど、あってはならないのだ。


ユウは震えるまつ毛を伏せ、手すりを強く握った。

それでも、心だけは――なお、彼の背を追っていた。


その痛みが、次に交わす言葉の色を変えてしまうとは、まだ知らなかった。


次回ーー

出立の前夜、シリは妾ドーラを静かに見送った。

嫉妬もなく、微笑みだけを残して。


――夫を愛していないからこそ、妾に優しくできる。


翌朝、旅立つゴロクの背を見送りながら、

シリは胸の奥でふと安堵する。


――もう、抱かれなくていい。


愛を知った人間だけが抱く、静かな恐れと空虚。

霧の朝、シリの心は、まだ帰る場所を見つけられずにいた。



毎日更新していたら、81話を越えていました。

それを知った家族に「伝記か?」と言われた雨日です。


ちなみに、下書きは現在61話、文字数26万字・・・もはや病気かもしれません。


執筆スタイルがどれだけ心配性で粘着質か(笑)、

ちょっと赤裸々に語ったエッセイがあります。


➤ テンプレ?何それ?美味しいの?よければ、(N2523KL)で検索してみてくださいね。


明日は2回更新します。

明日の9時20分 触れられたくない夜


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このお話は続編です。前編はこちら お陰様で十万五千PV突破

兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。


▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/

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