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妻でありながら、他人

妾の部屋は静かな空気が流れていた。


「ドーラ様・・・本当に、行かれるのですね」


刺繍の手を止めたプリシアが、おずおずと口を開く。


細い声には、かすかな不安が滲んでいた。


「そりゃそうでしょ。あの人は選ばれたのだから」


フィルが、わざと軽く言い放った。


けれどその瞳は、ほんの少しだけ揺れていた。


「私、選ばれるかもって思ってたのに・・・」


ふと漏れたその一言に、誰も何も言わなかった。


3日後にドーラはミンスタ領に行く、ゴロクの付き添いを務めることになる。


ドーラは黙って衣装箪笥を開け、丁寧に折り目をつけながら荷をまとめている。


「シリ様が、ドーラ様を推薦したらしいですね」

プリシアがぽつりと続けた。


「適任です、って」


「それって、“私たちは適任じゃない”ってことよね?」


フィルの声に、わずかな棘があった。


「・・・そんなこと、言ってません」


プリシアが俯いて言い返す。


フィルはふっと鼻を鳴らした。


「わかってる。でも、あの人はシリ様に信頼されてる。だから選ばれた。それだけよ」


ドーラは何も言わずに箪笥を閉じ、ふたりに背を向けたまま言った。


「私は、ただの付き添い。役目を果たすだけよ」



プリシアはぎゅっと指先を握りしめ、フィルはそっぽを向いた。


「お気をつけて」


「・・・まあ、せいぜい恥をかかせないように、がんばって」


フィルの言葉に、誰も何も言わなかった。


ドーラはふと、若い頃を思い出す。


初めて妾となった日、緊張で指が震え、襟元を掴んだまま扉の前で立ち尽くしたこと。

優しくしてくれたのは、先にいた年上の妾たちだった。


「・・・今度は、私の番ね」

小さく呟いて、衣装のしわを整えた。


背後でプリシアとフィルが、どちらともなく囁き合う気配があった。

それが言葉だったか、ため息だったか、ドーラには聞き取れなかった。


「選ばれたのは、うれしくないわけじゃない。でも・・・それだけじゃ、だめなのね」

ドーラは、誰にも聞こえないように呟いた。


◇その夜、シリの部屋ではーー


扉を叩く音がした。


ーーまただわ。


背筋が、ふっと強張る。


肩にかけた薄衣の感触すら重くなるような気がした。


「お入りください」


そう告げる声は、自分が思っていたよりも穏やかだった。


エマがそっと扉を開けた。

入ってきたのは、やはりゴロクだった。


一瞬だけ視線が交差する。

何も言わぬまま、ゴロクはゆっくりと部屋に入る。


シリの背後で、エマがわずかに動いた。


小さく会釈し、無言のまま、静かに扉を閉じる。

気配を消すように、音も立てずに部屋を後にした。


部屋に残されたのは、シリと、ゴロクだけだ。


「・・・出立まで、あと3日だ」


ゴロクが低く呟く。


シリは目を伏せたまま、何も答えない。


――これで、ゴロクの顔が立つのなら。


そう思うことでしか、自分を許せなかった。


そっと歩み寄ってきたゴロクの手が、シリの肩に触れる。


その手の温もりに、思わずまた背中がわずかに震えた。


けれど、逃げなかった。


ーー今夜も、ただ黙って受け入れる。


そう決めたのは、自分だった。


ベッドの上で吐息が交じり合う。


掌の下にある肌は確かに温かいはずなのに、どこか遠かった。


「・・・シリ様」

ゴロクは、そっと名を呼んだ。


だが、返ってきたのは静かな沈黙と、わずかに逸らされた目だった。


その瞬間、はっきりと分かってしまった。


――これは、ただの務めなのだ。


シリの目は、こちらを見ていない。


仰ぐでもなく、応えるでもなく、ただ、じっと何かに耐えるようなまなざし。


まるで――

遠い過去に、心を置き去りにしたまま、今だけを生きているような。


「・・・苦しくは、ないか」


そっと訊ねると、シリはかすかに首を振った。


「大丈夫です」


微笑みすら見せるその返答に、ゴロクの胸は締めつけられる。


それは「優しさ」ではなく、「距離」だった。


ーーこの人は、私を好いていない。


触れていながら、抱いていながら、まるで他人のようだった。


若く美しいゼンシ様の妹。


そんな尊い女性を妻にすると決めた時から、覚悟はしていた、でも――


愛されたいわけではなかった。


ただ、必要とされたい――そう願っていたはずなのに。


一瞬だけ、シリの名を呼びかけそうになった。


けれど、唇は閉じたまま、何も言わなかった。


手を伸ばしても届かない。

シリの心は、別の場所にある。


それは、亡き夫――グユウ・セン。


彼と自分の年齢差は30歳ほどある。


もう、死んでしまった若く精悍だった男。


ーーもう、何年も前に死んだのに。


まだ、気持ちはそこにあるのか。


ゴロクは静かに目を閉じた。


それでも、この腕の中に彼女がいることだけは、今の真実だった。


ーーだから、せめて今日だけは。


何も望まず、ただ黙って、寄り添うふりをする。


ーー私の名を、心から呼ばれる日は来ないのだろう。


ゴロクは、静かにその現実を受け入れた。

けれど、心の奥底では、まだ僅かな願いが消えていなかった。


――いつか、彼女がこの手を、温もりとして返してくれる日が来るのだろうか。


その日が来るまで、待ち続けよう。


抱きしめるこの腕が、いつか彼女にとって安らぎになりますように――。


そう願いながら、ゴロクはゆっくりとまぶたを閉じた。


外では、秋の風が静かに枝を揺らしていた。


まだ届かなくても、この腕の温もりが、いつか彼女の心を包めると信じたかった。



◇シリとゴロク、それぞれの想いがすれ違う夜。


明けた朝に始まるのは、もうひとつの物語。

少年の稽古と、少女の揺れる心――


明日、20時20分、シュリとユウの小さな変化をお届けします。


◇毎日、更新している秘訣は、50話以上ストックがあるからです。 書き手の苦悩 笑ってください。エッセイ更新しています↓

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書き手の苦悩、笑ってください


『テンプレ?何それ?美味しいの?』


なろうテンプレを知らずに「小説家になろう」に突撃したド素人の全記録。


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◇ 登場人物


シリ

亡きグユウの妻。現在はノルド城の妃として、ゴロクに仕えている。心の奥では、今もグユウへの想いを抱く。


ゴロク

ノルド城の領主。誠実で穏やかだが、シリに惹かれながらもその心の距離に苦しむ。


ドーラ

三人の妾の中で最年長。冷静で思慮深く、シリに信頼されている。ミンスタ行きの随行役に選ばれる。


プリシア

若い妾の一人。おっとりしているが、感受性が強く、ドーラへの憧れと不安を抱く。


フィル

もう一人の妾。気が強く、シリに対して複雑な感情を持つ。素直になれないが、心の奥には誇りがある。


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