妃の願い 静けさの中で、声をあげる
ノルド城の朝は、静かすぎた。
城のしきたりで、朝食は一人で自室でとることになっている。
この地に来てから、シリは毎朝、ひとりで用意された膳に向き合っていた。
今朝も、食卓の上には目にも鮮やかな果物と焼きたてのパン、温かなスープが並んでいる。
だが、フォークが進まない。
胃が重い。
昨夜も眠れなかった。
連夜の情事に、身体がきしむように重い。
レーク城では、いつもグユウが隣にいた。
彼は多くを語らず、朝食は質素だった。
けれど、いつも優しい目でシリを見つめてくれた。
それだけで空気が満たされた。
シュドリー城では、娘たちが賑やかだった。
「おかわり!」と声を張るレイ。
口の端にパン屑をつけたまま笑うウイ。
黙っていても、ユウが注ぐお茶は温かかった。
だが、今は違う。
誰の声もしない。
耳に届くのは、鳥のさえずりだけ。
・・・寂しい。
ぽつりと、心の奥で呟く。
朝食の膳に手をつけないまま、シリはふと呟いた。
「・・・子供たちと、朝食をとりたいのだけれど」
部屋に控えていたエマが、息を呑む気配を見せた。
給仕をしていた侍女が、言葉を選ぶように口を開く。
「それは・・・少し、難しいかと存じます」
「どうして?」
「ノルド城では、朝食は個別に食べることが慣わしです。朝食もまた、規律のひとつで・・・」
「慣わし?」
シリの声に、わずかな棘が混じった。
「私は彼女たちの母です。話もしたい。顔も見たい。
ただ一緒に、朝の食卓を囲みたい。それだけなのに、だめなの?」
侍女は目を伏せ、かすかに頭を下げた。
「・・・ご理解ください。あの方の許しがなければ、勝手には・・・」
シリはしばし沈黙し、それから静かに立ち上がった。
「じゃあ、お願いしてくるわ。――私から、直接」
「し、シリ様!」
呼び止める声を背に、シリは扉に手をかけた。
ここに来てから、何かを自分の望みで動かそうとしたのは初めてだった。
けれど――
子どもたちと朝を共にすることすら叶わないなら、
この城で、自分はいったい何なのか。
そう思った。
ノルド城の西棟、階段を二つ上がった先。
重厚な扉の奥に、ゴロクの執務室はあった。
シリは扉の前で一度、深く息を吐いた。
控えていた侍女が軽く戸を叩き、中から「入れ」と低い声が返る。
書棚に囲まれた部屋の中央。
木目の美しい長机に書類を広げ、ゴロクが筆を走らせていた。
その手が止まる。
顔を上げた彼の表情には、わずかに驚きが浮かぶ。
「・・・何かあったか」
「お願いがあって、まいりました」
シリはまっすぐに視線を向け、机の前まで歩み寄る。
口を開くまでに、ほんの少し間が空いた。
「子供たちと、朝食を一緒にとりたいのです」
ゴロクは椅子に背を預けたまま、彼女を見つめていた。
「・・・寂しいのか」
ゴロクがシリを見つめる。
責めるようでも、拒むようでもなく、ただ事実を確認するように。
シリは少しだけ瞳を伏せ、かすかに頷いた。
「シュドリー城では、子供たちと一緒に朝食を食べていました。
けれどここでは、誰の気配もなく、ひとりきりで・・・」
言いながら、自分でも情けないと思った。
ゴロクはしばらく黙った後、視線を机の書類に戻し、筆を置いた。
「・・・ならば、そうしよう」
「・・・え?」
「シリ様が望むなら、子らと食事をともにするくらい、誰も文句は言うまい」
「良いのですか?」
シリは思わず質問をしてしまった。
もっと形式や規律の話をされると思っていた。
彼がここまであっさりと受け入れるとは、思っていなかった。
ゴロクは微笑んで頷いた。
「ありがとう・・・ございます」
「・・・ただし」
ゴロクは立ち上がり、机越しに近づく。
「今夜も・・・会いに行っても、いいでしょうか」
言いながら、顔を赤らめた。
冗談なのか、本気なのか――
シリはぎこちない笑顔を作り、小さくうなずいた。
ゴロクの部屋を出た後に、シリは厨房を訪れた。
「明日の朝食は離れに運んでください。子どもたちと食べます」
突然の妃の訪問に料理長が驚いて目を丸くする。
「承知しました」
部屋に戻ろうとした時に、気づいたことがあった。
給仕の女が朝食を運ぼうとしていた。
自室に届く朝食と、目の前に運ばれる食事。
見た目にも、香りにも、どこか差がある。
シリは給仕の女を呼び寄せ、小声で尋ねた。
「これは、どなたの食事?」
女は一瞬だけ目を泳がせたが、すぐにかしこまり頭を下げた。
「これは・・・第二夫人の皆様の食事です」
「ずいぶん、食事の内容が違うのね」
「はい・・・。妃と第二夫人が同じ献立では・・・」
女は口ごもる。
自分は上から指示に従うだけ。
そんな指摘をされても・・・・
黙って下をむいた。
「そう・・・けれど、それでは困るわね」
シリは穏やかに微笑んだ。
「料理長を呼んで」
ひざまづいた料理長に、シリは伝えた。
「妾であっても、この館の方でしょう? 栄養豊富な食事をとらせないと。子ができないわ」
「は・・・はい」
料理長は頭を下げた。
「館全体の食事の質を均一にして。ゴロクには私から伝える」
◇
その日の昼食から、妾たちの部屋には温かな野菜のスープと、炙った肉が配されるようになった。
それに気づいたのは、年嵩の妾――ドーラだった。
「今日の昼食は豪華だわ? どうして?」
思わず給仕の女に質問をした。
「妃様からの指示です」
その言葉にドーラは息を呑んだ。
“妃”とは、もっと冷たく、上から支配する存在だと思っていた。
けれど、あの妃は――
「・・・見ているのね、ちゃんと」
誰にも気づかれぬように、目を伏せたドーラの頬に、ほんのわずかな笑みが宿った。
明日は2回更新します。
次回ーー
一方その頃、妃の私室では――
「妾のところへ行ってください」と告げるシリに、
ゴロクは静かに答えた。
「私は、シリ様を好いています」
抑えた想いが、夜の静寂を破る。
愛か、義務か。二人の心は、もう引き返せないところまで来ていた。
9時20分 妾のところへ行ってください
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このお話は続編です。前編はこちら お陰様で10万PV突破
兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。
▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
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