許されない唇
夜更け。
薄明かりの中、ゴロクの腕の中でシリは静かに瞬きをしていた。
しんとした静かな暗闇。
ただ、ぬるく甘い熱が、互いの肌の間を満たしていた。
幾度目かの抱擁のあと、
ゴロクの手が、そっとシリの頬を包む。
ゆっくりと、彼の顔が近づいてくるのを、シリは感じた。
その瞬間。
シリは、身を硬くして、わずかに首を横に振った。
唇が触れる寸前で、彼の動きをやんわりと制する。
「・・・」
何も言わず、けれどハッキリと拒むその仕草に、ゴロクは一瞬、目を伏せる。
そっと逸らされたその瞬間、ゴロクは何も言わず、代わりにシリの白い肩に唇を寄せた。
「ごめんなさい・・・」
低くかすれたシリの声が、彼の耳に届いたかどうかはわからない。
けれどゴロクはそれ以上、求めなかった。
身体は重ねても――
唇だけは、まだ許せない。
そこには、言葉にならない“心の領域”があった。
薄暗い天蓋の中で、シリは静かにまぶたを閉じた。
ノルド城に移ってから、もうすぐ十日が経とうとしている。
そのうち、夜を共にしなかったのは、たったの一度だけだった。
それは、ゴロクが政務で夜更けに帰った日だった。
毎晩、いかつい顔を赤らめて、シリの部屋を訪ねる。
夜に扉を叩く音が聞こえると、シリはため息をついてしまう。
「・・・おやすみ」
低い声が背を向ける。
その背中に手を伸ばす気には、なれなかった。
痛むわけではない。
けれど、深く息をつけば、身体の奥のほうが重たく、だるかった。
心に蓋をしていなければ、きっと泣いてしまっただろう。
ーー大丈夫よ。これが、妃の役目。
シリは唇を噛み締める。
この結婚は、モザ家存続のためという大義名分があった。
ゴロクは優しい。
シリに対しては、ゼンシ様の妹と敬う態度を崩さなかったし、
娘たちには、大切な預かり者として丁寧な対応をしている。
けれど、目の前にいる年齢を感じる男に対してーー
愛情を抱くのは難しかった。
ーーグユウさん。
ゴロクに抱かれるたびに、胸が苦しくなる。
グユウと過ごしたあの夜のことを、思い出す。
初めて身を重ねたあの日。
それは、不器用で、ぎこちなくて、けれど――愛があった。
恐る恐る触れる手。
触れてもいいのかと問うような、あの黒い瞳。
その思い出を胸に、生きていくしかない。
ーーこれがーー政略結婚。
シリはゆっくりと目を閉じた。
心は、身体と違って、すぐには切り替わらない。
けれど――
それでも前を向かなければならないのだと、どこかでわかっていた。
ーー明日は子供たちと一緒に裁縫をしよう。
そんなふうに、小さな日常を考える。
自分を保つために。
もう、ひとりじゃないから。
◇
シリは寝台から起き上がることもできず、ぐったりとシーツの上に横たわっていた。
日差しはやわらかく、鳥の声も聞こえる。
けれど彼女の体は重く、指先ひとつ動かすのにもため息が出る。
ーーまさか、こんなに、とは・・・。
呆然と天井を見つめる。
ゴロクはすでに領務のために出ていった。
いつも早起きで、無言で支度をし、何事もなかったように部屋を出ていく。
その背を見送るのが精いっぱいだった。
枕元の銀の水差しを手に取ろうとして、腕がぷるぷると震える。
腰も、肩も、どこもかしこも痛む。というより、熱い。
ーーこれが・・・再婚・・・。
と、そのとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「シリ様、よろしいでしょうか?」
エマの声だ。
「・・・ええ」
シリはようやく、寝台から身を起こした。
「・・・今日の予定、減らしてもらえるかしら」
「心得ております」
乱れた髪を整えるようにエマが髪を撫でる。
「あの年齢で、どうしてあんなに元気なのかしら…」
優しく触れられると、抑えていた本音がこぼれてしまう。
この疲労は、年齢によるものなのか、
それとも、愛を伴わない行為だからなのか。
シリはわからなかった。
エマは黙って、水差しから水を注いだ。
静かに扉の外へ下がると、扉の向こうから小さく、
「・・・お疲れ様です」
とだけ、呟くような声がした。
今日も新しい日々が始まる。
ブックマークが一つ増えていて、ひそかに喜んでおります。
読んでくださっている方がいるという事実に、背筋が伸びる思いです。
明日は二話更新予定です、また覗いていただけたら嬉しいです!
次回ーー
妾部屋に射す、朝の淡い光。
誰も口にしないけれど、三人の胸には同じ痛みがあった。
――あの方が来てから、何もかも変わった。
愛されることで保たれていた均衡が、静かに崩れていく。
そして彼女たちは知る。
もう、戻れない日々があることを。
明日の9時20分 一度くらい愛されたかった
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この話の前の話 お陰様で10万PV突破しました。
兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。
▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
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