妃としての夜。私の心は、まだあの人を見ていた
その日の夜、ノルド城の妃の部屋は静かだった。
けれど、その静けさが、今のシリには少し重かった。
娘たちは、離れにある自室へと戻っていった。
シリは長いため息をついた後、靴を履いたまま寝室のベッドに飛び込んだ。
「・・・お疲れでしょう、シリ様」
「・・・ええ。ほんとうに、疲れたわ」
ぽつりと吐き出すと、身体がじんわりと沈む。
シリは、ぐったりと布団に頬を寄せる。
ふわふわの布団の肌触りに気持ちが和む。
ーー昨夜は初夜だったので、碌に眠れなかった。
今日は、ゆっくりと一人で寝るのだ。
そう思うと、心からホッとする。
「朝から、ずっと・・・言葉を選んで、あの子たちの表情ばかり気にして・・・もう、疲れたわ」
「・・・はい。でも」
エマは甘やかすように、ベッドから飛び出たシリの靴を優しく脱がす。
「でも、って言うのでしょう?」
エマが口をつぐんだのを見て、シリは苦笑した。
「・・・そうね。そんなことを言っても仕方ないのよね。
妾が三人いようと、ユウが癇癪を起こしても、
私はここで、“妃”として振る舞わなければならない」
「その通りです。それでも、お疲れになったなら話してください」
エマにしては、珍しく甘やかしてくれる。
「・・・ありがとう」
声に少しだけ力を宿し、シリは視線を開かれた書斎の奥へと向けた。
そこには、書斎棚の上に置かれた、小さな木像があった。
亡き夫グユウがくれたもの――彼の手のぬくもりが、今もそこに残っているように思える。
シリは、ゆっくりとベッドから起き上がり、木像に触れてみた。
触れれば、そのかたさが逆に、懐かしさを呼び起こす。
ーー私は、もう、戻れないのに。
ゴロクと共に夜を過ごしたことに罪悪感を感じてしまう。
扉の向こうから小さなノックの音が響いた。
エマが扉に向かい、開け放つ。
「・・・お邪魔する」
現れたのは、ゴロクだった。
シリは慌てて、靴を履いた。
エマは、ゴロクのためにお茶を淹れ始めた。
書斎の椅子に座ったゴロクに、シリは深く頭を下げた。
「ユウの躾が足りず・・・ご迷惑をおかけしました」
心のなかでは、まだ鼓動が静まらない。
ユウの言葉が、どれほど失礼だったか――わかっている。
ーーあんなふうに挑むなんて。
申し訳なさと情けなさが混じって、シリの胸に重くのしかかる。
けれど、ゴロクは少しだけ頬をゆるめて言った。
「いや、気にしてない」
穏やかなその声音に、シリは顔を上げた。
ゴロクは、俯きがちだった彼女の目をまっすぐに見つめる。
「・・・気が強く、なかなか目が離せぬ姫君だ」
優しく、けれどどこか楽しげに微笑んだ。
その表情に、シリの胸がわずかに揺れる。
「ゴロク・・・」
小さく呟くその声には、戸惑いと、どこか安堵の色が混じっていた。
「この年齢で子育てを始めるとは思わなんだが・・・想像以上に、歯応えのある姫だな」
自嘲気味に笑いながらも、そこには確かな覚悟が滲んでいた。
シリは思わず頭を下げ直した。
ーーこの人は、本当に向き合おうとしてくれている。
亡き夫とは違う。
ゼンシとも違う。
けれど、この人もまた、娘たちの未来を守ろうとしている。
そう思えたことが、少しだけ、救いだった。
ゴロクは、なおもじっとシリを見つめていた。
その視線に気づいたとき、シリは思わずまばたきをする。
「あの・・・」
ゴロクが口を開いた。
「・・・?」
シリは首をかしげる。
それ以上の言葉が出てこないゴロクの代わりに、空気を察したエマが軽く咳払いをした。
「私は、ここで失礼いたしますね」
それだけ言って、静かに席を立ち、そっと扉を閉める。
二人きりになった室内に、しんとした沈黙が落ちた。
ゴロクは、変わらずまっすぐにシリを見ていた。
目を逸らさないその表情に、さすがのシリも何かを察し始める。
ーーまさか・・・いや、違うでしょう。
シリは身体を硬くする。
長い沈黙に耐えかねて、思わず口にしてしまう。
「・・・今夜も・・・ですか?」
声が震えた。
そう訊いてしまった自分に驚きつつ、シリはその場に硬直する。
返事を待つまでもなく、ゴロクの眼差しが答えだった。
「・・・シリ様」
彼がそう呼ぶ声は、いつになく低く、熱を帯びていた。
心なしか、その声音には、彼なりの“覚悟”がにじんでいるようにも感じられた。
シリは身じろぎひとつできぬまま、ただ俯く。
ーーどうして?妾は?
グユウの面影が、木像の向こうに淡く揺れていた。
ーーグユウさん。
思い出すのは、白い寝具の中で重なったあの人の重み。
不器用で、優しくて、何度も「大丈夫か」と訊いてくれた人。
彼の手は大きくて、けれど決して荒くはなかった。
「シリ様・・・」
ゴロクの声が背後から降る。
その声に、シリはびくりと肩を震わせた。
振り向けば、彼がもうベッドの傍らに立っていた。
さっきまでの凛々しい領主の顔ではない。
どこか、迷いを押し殺すような、寂しげな眼差しだった。
「・・・手を、取ってもよいですか」
声に驚いて見上げたシリに、ゴロクは手を差し出した。
シリは、ためらった。
心が拒むわけではなかった。ただ、過去のぬくもりがまだ体に残っていた。
けれど――
ーー私は、妃なのだから。
そっと、指を絡めた。
温かい。
それだけで、胸の奥が軋むように痛んだ。
彼の手が、自分の肩へ、髪へと触れる。
それは決して乱暴ではなかった。
ーーこの人は・・・優しい。
そう、わかってしまったからこそ、シリの瞳に涙が滲んだ。
「・・・泣いているのか?」
「・・・いえ、違います。ただ・・・風が、目にしみただけ」
シリは微笑んだ。
こうして、シリと三姉妹は新しい生活を始めた。
次回ーー
政略の名のもとに始まった再婚。
静かな夜、シリは亡き夫の記憶と、今そばにいる男の温もりの狭間で揺れていた。
触れられるたびに疼くのは、身体ではなく――まだ癒えぬ心だった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
ちょっとずつですが、シリと三姉妹の新しい生活が始まります。
・・・と言っても、まだまだ波乱は続きます(笑)
実はブックマークは全然増えてないんですが、PVが地味に伸びていてビックリしてます。
読んでくださってる方、本当にありがとうございます!
よかったら、またのぞきに来てくださいね!
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この話の前の話 お陰様で10万PV突破しました。
兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。
▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
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