あなたの娘ではありません
ノルド城の本館、その一角に与えられたのは、妃であるシリのための三つの部屋だった。
寝室、書斎、そして衣装部屋。
どの部屋も調度品は上質で整えられ、天幕つきの寝台、座り心地が良さそうな椅子、
薔薇の刺繍が施されたクッションに至るまで、すべてが新しい。
これが、本来の妃という立場にふさわしい暮らしなのだろう。
それは頭ではわかっていたけれど――
シリの心には、今なおレーク城での慎ましい生活の記憶が色濃く残っていた。
夫グユウと共に過ごした小さな部屋。
妃の部屋はあったけれど、小さかった。
グユウと過ごしたかったので、その部屋は物置と化していた。
妾がいないグユウは、毎晩シリと共に寝室で寝た。
肩寄せ合って眠った夜の温もり。
初夜のあの夜も、グユウは不器用ながらも、シリを大切にしようとしてくれていた。
「妃は・・・本来は、こういうものだったのよね」
広すぎる寝室の天蓋を見上げながら、シリはぽつりとつぶやいた。
妃とは、本来こうして夫の訪れを静かに待つ存在。
夫が妾の部屋を訪ねる日もあれば、妃の部屋に立ち寄る日もある。
それは日常の一部として受け入れるべきもの――そう教わってきた。
ーーあれほど、若く豊かな胸がある妾たちがいるのだ。
初夜は終わった。
私を抱くことなど今後ない。
そう思ったとき、心のどこかが静かにほぐれるのを感じた。
――よかった。
今夜は、誰にも触れられずに済む。
誰の腕の中にもいないことが、こんなにも安堵をもたらすなんて。
シリは書斎の棚の上に、グユウから渡された木像を置いた。
ただの木像だけど、これは心の拠り所。
それを見ていると、あの不器用で優しい声が聞こえてくるような気がした。
そして、青い絹の小袋を首にかけ、胸の奥に押し込む。
その小袋には、亡き夫と子供の髪の毛が入っていた。
ーーこれでいつも一緒。
ようやく、気持ちの整理がつく。
◇
ノルド城の朝は静かだった。
けれど、今日ばかりは、空気がどこか張りつめている。
シリと三人の娘たちは、新しい生活の一歩として、正式にゴロクへの挨拶へ向かっていた。
館の廊下を、淡い色の衣をまとった女たちが歩く。
シリと三人の娘。
彼女たちは絵のように美しく並び立ち、館の者たちの視線を集めながら進んでいった。
けれど、その優雅な一行が、角を曲がった瞬間――
絹の衣がふわりと揺れ、強い香の香りが空気を一変させる。
妾たちだった。
ドーラ、プリシア、フィル――
三人の妾が、佇んでいた。
目が合うと、妾たちは形ばかりの会釈をした。
年嵩のドーラは目を伏せ、プリシアは微かに笑った。
一番若い妾フィルは、ふっと片方の口元を上げ、わずかに嘲るような笑みを浮かべた。
胸元を強調するように身をくねらせている。
目が合った瞬間、シリは気づいた。
その視線は、あからさまだった。
そしてフィルの目が、ユウを捉えた。
その瞬間、わずかに口元を吊り上げた笑みが、少女の心に火をつける。
シリは何も言わなかった。
ただ、その横をすれ違ったユウの肩が、かすかに震えていたのを、見逃さなかった。
妾たちは何も言わなかった。
ただ、香の残り香と共に、その場の空気を一段冷たくした。
再婚の挨拶として、三姉妹をゴロクの前に立たせた。
この瞬間が、こんなにも緊張するものだとは思わなかった。
夫と娘たちを引き合わせた、最初の日――
それが、どれほどの意味を持つか。
シリは、娘たちを一人ずつ見つめた。
本来であれば、長女であるユウが先に名乗るべきだった。
だが、ユウの横顔には、明らかな怒りが宿っていた。
このまま言葉を発せさせれば、礼ではなく、抗議になる。
シリは即座に判断を変えた。
シリはそっと末娘のレイに目をやり、うなずいてみせた。
レイは、白いドレスの裾を少し持ち上げ、落ち着いた仕草で一礼した。
髪には薄い青のリボンをつけている。
今日のために乳母 サキが用意したもので、
レイは何も言わなかったが、鏡の前で何度も髪を触っていた。
「レイと申します」
きれいな声だった。
年齢のわりに落ち着いていて、短い言葉のなかにも芯がある。
レイの瞳がまっすぐにゴロクを見たとき、その黒く澄んだ目元が一瞬、グユウと重なった。
そのまっすぐな眼差しと、凛とした姿勢。
それはまぎれもなく、シリとグユウの血を受け継いだ証だった。
ゴロクがごくりと喉を鳴らす音が、シリにははっきりと聞こえた。
シリは少しだけ目を伏せる。
レイを見ても、グユウの影が見えるのか――それならば、それを受け入れてもらわなければ。
続いて、次女のウイが進み出た。
ウイの金褐色の髪には、淡い紫のリボンが結ばれていた。
そのリボンには、小さな白い花の刺繍が施されている。
それは、ウイ自身が仕上げた見事な手仕事だった。
ふわふわの金褐色の髪が揺れ、小さな手でスカートの皺を整えてから、ニコリと笑った。
「ウイと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
その笑顔の明るさは場の緊張をやわらげ、周囲の空気がわずかに和らぐのをシリは感じた。
ああ、この子はこうして、人と人との間に光を差しこむ役目を担っているのかもしれない。
シリの頬がほんの少し緩む。
「こちらこそ、よろしく頼む」
ゴロクが低く言いながら、ウイはうれしそうに小さくうなずいた。
そして、最後にユウ。
彼女は青色のドレスに身を包み、ピシッと背筋を伸ばして立っていた。
だがその顔は伏せられ、瞳は見えない。
シリは、娘の頑なさを肌で感じていた。
無理に気持ちを切り替えさせることはできない――けれど、今この場を無事に終えなければならないという現実もある。
シリだけではなく、エマ、ヨシノ、シュリの間にも緊張が走る。
やがて、ユウがゆっくりと前に進み出た。
スカートの裾がわずかに揺れた。
けれど、頭を深く下げたまま、何も言わない。
ゴロクの低い声が、沈黙を割った。
「顔をあげよ」
その瞬間だった。
ユウが顔を上げた。
その深く青い目はーー炎だった。
唇をきつく結び、声を絞り出すように言う。
「セン家の長女、ユウと申します」
言葉の棘は、誰よりも鋭かった。
ゴロクの眉が、ほんのわずかに動いた。
それは、怒りでも驚きでもない――
ただ、“重さ”を感じた人間の顔だった。
シリは小さく息をのんだ。
その声は、まるで「わたしはあなたの娘ではありません」と告げているようだった。
ゴロクがどう受け止めたのか、顔からは読み取れなかった。
三人の娘を前にして、ゴロクはどんな言葉を選ぶのか。
それを見届けることが、私の“再婚”なのだ。
愛ではない。
ただ、責任と希望を携えて。
この子たちの未来のために――。
ブックマーク、ありがとうございます!
久しぶりなので、思わず画面を二度見しました。笑
小さなことかもしれないけれど、書き手には大きな励みです。
読んでくださる皆さまに支えられて、今日も執筆頑張ります。
次回ーー
「セン家の長女、ユウと申します」
その言葉は、剣のように鋭かった。
母を“守る”と誓った少女と、“守る”ことでしか愛を語れぬ男。
シリの影を背に、二人の運命が静かに交わり始める――。
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この話の前の話 お陰様で10万PV突破しました。
兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。
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