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妾がいて良かったと思った日


柔らかな髪が、まだ枕元に散っていた。

だが、その温もりはもうベッドの端へと離れていた。


ーー夢ではないのだな。


灯りの落ちた部屋の静けさの中、ゴロクはひとつ、息をついた。

長年、胸の奥に隠し持っていた願いが、今、ようやく叶った。


ずっと、憧れていた。

幼い頃から、自分のような男が手にしていい相手ではないと思っていた。


モザ家の姫。


気高く、激しく、誰の手にも収まらぬ、ひときわ強く美しい女。


そんな彼女を、今夜、自分の腕に抱いた。


細い背中を撫でたとき、

ぎこちなくも受け入れようとする気配に、彼女の不安や迷いが透けて見えた。


ーーそれでも、私を拒まなかった。


その事実だけで、胸の奥が温かく満たされていく。


けれど、湧き上がるのはそれだけではない。


ただの肉体の交わりでは足りない。

彼女の心が欲しい。言葉が欲しい。笑顔が欲しい。


この人の「伴侶」になりたいと、心の底から思った。


ーー欲深いな。


思わず、自嘲めいた笑みが漏れた。


もうすぐ60歳になろうとしている。


けれどもう、自分の気持ちには嘘をつけない。


いくら無骨で、老いた身体でも、

この胸の内にあるものは、誰よりも誠実で、熱い。


「・・・シリ様」


彼女の名前を小さく呟くと、

彼女は、寝返りを打って背を向けたまま、わずかに身じろぎをした。


それだけで、愛しさが募る。


ーーいつかきっと、心から、私の名を呼んでくれる日が来るだろうか。


――この温もりを、今夜だけのものにはしたくない。

そう願うこと自体が、老いの執着なのだろうか。


その夜、ゴロクは長く目を閉じられずにいた。


重たく沈むような夜だった。



ーー終わった。


掛け布団の中、シリは静かに目を開けた。

天井の模様がぼんやりと見える。


眠れそうになかった。


ゴロクの体温が、まだ隣に残っている。


けれど、それが触れあったからなのか、ただ湯のぬくもりが残っているだけなのか、もうわからなかった。


ーーとにかく、任務は終えた。


そう思った。



モザ家の重責を背負い、娘たちを守るため、再婚する。

それが自分に与えられた「次の役割」。


その役割の一つに“初夜を迎えること”があったのだとしたら、

今夜、それも完了したにすぎない。


ーーこれで、城の者も、ゴロクも満足でしょう。


そう、自分に言い聞かせる。


でも、心が、ついてこない。


彼の手は確かに優しかった。

言葉も、驚くほど丁寧だった。


なのに。

抱かれた腕が、じんわりと痛む。


熱くも、甘くもない。

けれど、冷たくも、苦痛でもない。

ただ、自分の心だけが、ここにいなかった。



ーーグユウさんなら、きっと。


思い出した瞬間、唇がわずかに震えた。

名前を思い出しただけで、こんなにも胸が軋むなんて。


ーーあとは、妾たちにお任せすれば良い。


そう思ったとき、わずかに肩の力が抜けた。


妾がいるという事実が、これほど自分を楽にさせるとは思わなかった。


ああ、そうだ。

これが、本来の「妃」の在り方だった。


妾がいて、妃は静かに暮らす。

その役目を淡々とこなせばいい。


ーー心までは、渡せない。


小さく吐いた息が、枕元に白く溶けた気がした。


彼に抱かれていた腕を、ゆっくりと胸の上で組みなおす。


ーー任務は、果たした。もう、迷う必要はない。


そう自分に言い聞かせながら、

シリはただ、静かにまぶたを閉じた。



夜が明ける少し前。

まだ空に星が残る頃、エマはそっと寝室の扉を開けた。


広く贅沢なその部屋には、重たく沈黙が漂っている。

床には整然と脱がれた衣類。

火は消え、蝋燭の明かりだけがかすかに揺れていた。


ゴロクの姿はすでになく、広すぎる寝台にはシリが一人。


掛け布団を胸元までかけ、身体を小さくして眠っている・・・ように見えた。


ぴんと張りつめた空気の中――

その頬に、光るものを見た瞬間、エマの胸が締めつけられる。


ーー泣いている。


シリの長いまつげが震えていた。


どこにもぶつけられないような、ひとしずくが枕に染みていた。


こぼれる涙は、ゴロクに触れられた痛みなのか、

グユウへの裏切りのような罪悪感なのか、

それとも、ただ心が追いつかないだけなのか――


エマにはわからなかった。


声を上げることもなく、気づかれぬように。

妃として、母として、姫として――

誰にも見せられぬ悲しみを、ただ一人で受け止めているのだ。


エマはそっと近づいて、枕元に跪いた。


「・・・シリ様」


反応はない。


けれど、睫毛が微かに震えた。


エマは布の端で、その涙をそっと拭った。


「マナトには、泣いたことをお伝えしません。ご安心を」

その声は、いつになく静かで優しかった。


かつて、何度もグユウと睦み合い、照れたように布団に潜った日のことを思い出す。

あれほど笑い、あれほど甘えていたシリが――


今では遠くなってしまった、若くて幸せな姫の姿。


エマはそっと掛け布団を整えると、何事もなかったかのように立ち上がった。


「・・・もうすぐ、朝です。冷えますから、少しでもお眠りくださいね」


それだけ言って、エマは部屋を後にした。


重く閉じられた扉の向こう、微かな吐息がまだ枕を濡らしていた。


ーー泣いても良いのです。


そう心の中で何度も呼びかけた。


けれど、口には出さなかった。

出せなかった。


言葉をかけたら、きっとシリは顔を上げてしまう。

気丈に、微笑もうとしてしまう。


だから――黙っていた。


明け方の冷たい光が、寝室に差し始めていた。


「成婚完了です」

マナトの低い声に、エマは小さく震える声で答えた。


「・・・はい」



次回ーー


早朝の庭に、咲き残るバラの香り。

ユウは母の泣いた痕を見て、胸を裂かれる思いだった。


「守りたかったのに――」

こぼれた叫びを、シュリの腕が受け止める。


秋の終わり、ユウの涙はバラの露のように落ちていった。



明日の20時20分 泣いてなどない、風が目に沁みただけ

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この話の前の話 お陰様で10万PV突破しました。

兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。


▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/

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