初夜という名の務め
シズル領・本城の浴室は、広く、贅沢だった。
天井は高く、壁には淡い桃色の大理石が敷き詰められ、湯は香草の香りを漂わせて湯気を立てている。
その中央で、シリは肩まで湯に浸かり、目を閉じていた。
今夜は初夜。
湯はぬるくもなく熱くもなく、肌を撫でるように心地よい。
けれど、心までは温まらない。
「こんなに広いと、かえって落ち着かないわね・・・」
そうぼやいたあとで、ふと口をつく。
「・・・やっぱり、嫌だわ」
ぼそりとこぼした言葉に、隣で布をたたんでいたエマがぴたりと手を止める。
「・・・そうですね」
切なそうに眉を寄せる。
シリは湯の中で膝を抱えるようにして、小さく縮こまった。
「浴室だけではなく、お城も、広すぎるわ・・・」
「素晴らしいお城です。シュドリー城より新しいですよね」
「・・・でも、私は古いレーク城の方が良いわ」
レーク城は近くに温泉はあったけれど、城内にはお風呂はなかった。
浴室があるのは、豪華な城の証でもある。
「・・・」
エマは何も言わずに手を止めた。
湯船の中のシリの手が、指先でぽつりぽつりと水面をはじく。
「“抱かれる”ことまで、覚悟してたはずなのに、身体が勝手に嫌がるのよ」
その声に、ほんのかすかな震えが混じった。
エマはそっと手拭いを湯に浸し、軽く絞ってからシリの肩に掛けた。
「どんなに覚悟しても、気持ちは急には変わりません。無理に割り切らなくてもいいのです」
「・・・そうね」
シリは静かに目を閉じた。
ーーこんなことは娘たちの前では言えない。
エマだからこそ、言える。
湯の湯気が白く立ち込める浴室で、エマはシリの髪にそっと湯をかけながら、
心の奥をふと過ぎった記憶に呑まれていた。
ーーあの頃のシリ様は・・・。
レーク城に嫁いだばかりの頃。
慣れぬ土地、慣れぬ生活。
けれど、自分たちの寝室に向かうたび、頬を赤く染めて、少し背筋を伸ばしていたあの姿。
「また今夜も眠れないかもしれないわ」
そう囁いて、濡れた布で身体を拭いていた。
2人は仲が良く、妊娠中のシリを求めるグユウに苛立ち、
エマは何度も呆れたようにため息をついたものだった。
ーーまったく、この2人は・・・と。
今、エマの前にいるのは、その姫とは思えぬほど静かなシリだった。
新たな婚礼の前に湯に身を沈めながらも、喜びも照れも浮かばない。
白く細い背中は、どこか頼りなくて――
いや、違う。これは、覚悟を背負った女の背中だ。
ーーもう、あんな風に笑うことはないのかもしれませんね。
湯気の向こう、ぼんやりと揺れるその姿を見ながら、エマは口を閉ざした。
そっと布を差し出し、静かに言う。
「湯冷めなさいませんように、シリ様」
その声に、シリはかすかに頷いただけだった。
湯から上がったシリの肌は、ほんのりと薔薇色に染まっていた。
絹の浴衣を羽織らせながら、エマはいつもより丁寧に櫛をとおす。
「・・・それで・・・やっぱり、エマなの? 『観察役』は」
沈黙を破るように、シリがぽつりと尋ねた。
初夜の夜は、新郎新婦の家臣が見張り役として付き添うことになる。
エマの手がぴたりと止まる。
「・・・はい。お役目ですので」
「やっぱり・・・」
シリはあからさまに眉をひそめた。
「こんな年齢で、夜のことをエマに見られるなんて、どんな拷問かと思うわ」
シリはふっと笑ったが、それはどこか投げやりな響きを含んでいた。
「でも、誰よりも姫様のことを知っているのは私です。よくわからない侍女がつくよりは、ずっといいと思いませんか?」
「・・・そうね、他人に見られるよりは・・・ましか」
シリは目を伏せた。
「ゴロク側の観察役は?」
「マナトと聞いています。ハンスは高齢なので・・・」
「ジムの孫が観察役・・・これも宿命ね」
グユウとの初夜の時、観察役はジムとエマだった。
シリはため息をついた。
鏡に映る自分は、艶やかな肌、柔らかく巻かれた髪、白の絹衣。
まるで知らない誰かのように、美しく仕立てられている。
「初夜は・・・任務だわ」
ぽつりと漏らしたその声に、エマは答えなかった。
ただそっと、シリの髪を結い終え、最後の飾り紐を整えた。
◇
夜の静けさが、いやに耳に響いた。
部屋には香が焚かれ、天蓋付きの寝台が整えられている。
壁は白く塗り替えられ、調度品は全て新調されていた。
シリのために用意された――初夜の場。
豪奢で美しい部屋だった。
それでもシリは、まるで金の鳥籠の中に閉じ込められた気分だった。
ーーなんで、私がこんな場所に。
薄絹の衣を身にまとい、シリは寝台の端に腰をかけた。
衣の胸元が落ち着かず、無意識に襟を掻き寄せる。
部屋の隅にはエマが控えていたが、声をかけてくることはなかった。
それがかえって、シリの苛立ちを煽った。
ーー来なければいいのに。
グユウは死ぬ前にシリに誓った。
『役目を終えるまで待っている。見守っている』と。
その言葉どうり、シリはグユウを身近に感じる時があった。
ーー今は・・・見守らないでほしい。
けれど、それも見苦しい願いだと分かっている。
婚礼を終えた以上、この“儀式”は避けられない。
政略結婚。
感情も、愛情も、何も挟まぬ契約。
豪華な寝室の中で、ため息の音だけがやけに大きく響いた。
扉が、ゆっくりと軋んだ。
シリの背筋が、びくりと硬直する。
ーー来た。
天蓋のレース越しに人影が揺れる。
歩幅はゆっくりで、けれど重く、ためらいがちだ。
シリは、そっと振り返った。
蝋燭の光に浮かび上がったのは、緊張して汗をかいているゴロクだった。
ぎこちない仕草で扉を閉め、
足元を確かめるように数歩、寝台に近づいてくる。
「・・・失礼します」
それだけ告げた声は低く、
けれどいつもの重々しさよりも、どこか迷いが混じっていた。
シリは、その様子に驚いていた。
ーーゴロクがこんな顔をするなんて。
堂々と妾を抱くような男だと想像していた。
相手が自分であろうと、何のためらいも見せずに抱きに来るものだと。
だが目の前にいるのは、
重責に押しつぶされそうなほど、固くなった男だった。
ゴロクは、一拍置いて頷き、寝台の端に腰を下ろした。
大柄な身体が揺れるたび、寝具がわずかに軋む。
沈黙が落ちた。
あれほど政の場では口数の少ない男だったが、
今はそれ以上に、言葉を探すのに苦しんでいるようだった。
「・・・寒くはないですか」
ようやく出たのは、そんな当たり障りのない問いだった。
「ええ。湯が熱かったので」
シリの返事もまた、よそよそしかった。
その間にも、エマとマナトは扉の向こうで気配を殺している。
ーーこの空気を、どうすれば良いの。
そう思いながらも、シリはゴロクの様子を見ていた。
ゴロクは、シリの顔をじっと見つめた。
「私は・・・あなたをお守りします」
その言葉に、シリはほんの少しだけ、身体をゆるめた。
「グユウ殿のことを想い続けても・・・良いのです」
「ゴロク・・・」
シリの声は掠れた。
ゴロクは気づいていたのだ。
シリの気持ちを・・・。
「・・・こういうことを、するのは・・・九年ぶりです」
シリがぽつりと、つぶやいた。
小さな声だった。
でも、その言葉には、あまりにも多くの時間と感情が詰まっていた。
九年――
それは肌に触れることのなかった年月。
けれど、それ以上に、誰にも心を明け渡さなかった時間だった。
グユウを失い、娘たちを連れ、女としての一切を閉ざしたその日から、
シリの身体は、誰にも触れられていない。
心も、肌も、眠る場所も。
すべてに、「女」を封じてきた。
それを今、静かに解こうとしているのだ。
ゴロクは、シリに一歩近づき、黙って彼女を抱き寄せた。
抱くというより、すくい上げるような動きだった。
「お守りします。もう2度と・・・悲しい思いをしないように」
シリを抱く腕の力が強くなる。
その言葉に、シリは目をつぶった。
「はい」
ーーこれは、睦み合うものでもない。
たとえ、ゴロクに抱かれようとも。
ーー誰のものにもならないまま、誰かに差し出されて生きていく。
ゴロクが衣に手をかけた。
かつての初夜、グユウのもとに嫁いだ夜――
心は緊張していても、そこには「愛されたい」という感情があった。
だが今は違う。
今夜のこれは、務めであり、代償であり、身代わりのようなもの。
娘たちの未来のために、自らの身を差し出すこと。
それが、この再婚の意味だった。
ふたりの身体が、やわらかく触れ合う。
ゴロクの手が、シリの指先をとらえる。
女としての肌は、九年という時の重みを受け止めて、なお、静かに応えていた。
女が“女”に戻る夜。
男が“戦”ではなく、“人”として誰かを抱く夜。
それは、ひとしずくの沈黙のような――
とても静かな、夜だった。
明日の20時20分 妾がいて良かったと思った夜
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このお話は続編です。お陰様で10万PV突破!
兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。
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