名前がつけられない距離
子供達は無言のまま部屋に戻った。
窓の外では、いつの間にか雨が降り出していた。
濡れた木々がざわめき、バルコニーの屋根を叩く雫の音が響いている。
3人はそれぞれ椅子に座り、テーブルを囲んだ。
ユウは、ティーカップを手にしていたが、その視線は外の雨にむいていた。
指先にはわずかな力がこもっている。
ユウの胸の奥では、言葉にならない苛立ちが渦巻いていた。
雨の音ですらユウを苛立たせる。
「姉上・・・」
雨音にまぎれるような声で、ウイが口を開いた。
「妾がいるなんて・・・母上は辛くないのかしら」
ウイの群青色の瞳は悲しげだった。
「わたし、ちょっと、嫌だ」
レイは真っ直ぐな瞳でユウに伝えた。
ユウはふっと息を吐いた。
「母上は争いのために嫁ぐのよ。夫婦とは名ばかり。妾がいて悲しいという感情はないわ」
ユウがつぶやいた。
「母上は、あんなに美しいのに!ゴロク殿はおじいさんじゃないの!」
ウイは納得できない表情で話す。
「母上だけを大切にしてくれればいいのに」
レイも不満げだ。
「父上が、特別だったのよ。あんなふうに、妻を唯一の存在として扱う人なんて・・・もういない」
ユウが遠くを見つめる。
「でも・・・」
ウイは何か言いたそうだ。
「私たちは、少し贅沢なのかも」
ユウはそう言って、妹たちを見た。
「幼い時から父上と母上の姿を見ていたから、ゴロク殿にもそうあってほしいと願ってしまうのよ」
ユウの説明に、ウイは黙ってうなづいた。
ユウとウイとって、幼い頃に見た両親の仲睦まじい姿は、理想の夫婦の原風景だった。
型破りでお転婆な母を、愛おしそうに見つめる父の表情。
争いから戻ってきた時に、父はユウとウイを抱き寄せ、母と額を重ねていた。
父と母が並んで馬場を歩く姿を何度もこっそり見つめた。
別れる時に、母が父に抱きつき口づけを交わした姿が忘れられない。
争いの時代にあっても誇り高く、互いを想いあう姿。
その美しい記憶が、強く心に刻まれているからこそ、
理想と現実の差に苦しむのも無理のないことのように感じる。
「今の私たちの辛さは・・・妾のことではない。あの幸せだった日々が帰ってこないことが辛いのよ」
ユウはティーカップを持つ手がわずかに震えた。
「羨ましいわ。私は父上の記憶がないもの」
レイはため息をつく。
「そうね・・・。私たちは幸せなのね」
ウイは悲しそうな目で、ユウと目を合わせた。
「母上はモザ家のために嫁ぐのよ。覚悟ができているわ」
ユウはティーカップを口に運び、少しだけ紅茶を含んだ。
ぬるくなった紅茶が口の中で広がる。
その苦さに苛立ちがさらに増す。
「・・・覚悟って?」
ウイが小さく聞く。
ユウは2人の妹をゆっくりと見つめた。
「妃は愛されるだけでは生きられないの。家のために生きるの」
ティーカップの紅茶は、もう冷えていた。
ユウは、その冷えた茶をあえてゆっくりと飲み干した。
「私達も・・・母上を支えましょう」
ユウの強い眼差しに、ウイとレイはうなづいた。
カップを置いたとき、冷たい茶の底に、覚悟の影が沈んでいた。
雨は夕方になって止み、庭にはやわらかな光が差し込みはじめていた。
ユウは静かにベンチに座りながら東屋の柱にもたれた。
怒りを鎮めるように、深く息を吸う。
雨上がりの湿気を含んだ風が、頬をなでた。
ーー私も・・・叔父上のようになるのかもしれない。
怒りを抑えきれず、癇癪を爆発させたその瞬間、自分の中にゼンシの面影がちらついた。
ーー姉として、妹の前では強くいなきゃ・・・でも。
ユウは手をギュッと握りしめていた。
「ユウ様、よく堪えましたね」
振り向くと、乳母子のシュリが静かに立っていた。
「シュリ、私は納得していないわ」
ユウはキッと睨むように、試すように話す。
「はい」
シュリは、いつも通り穏やかに応じた。
「妾がいるのよ? 母上があんなに美しいのに・・・!」
ユウの声が怒りに震える。
「領主には妾がつきものです」
「わかってる!!」
ユウは立ち上がった。
「父上は違ったの。母上だけを、ずっと・・・」
涙がこぼれた。
シュリは驚かなかった。
生まれたときから見守ってきたユウ。
感情の激しさも、その優しさも、すべて知っている。
「それなのに・・・。母上が選ばれるなら、せめて、ただ一人の妻として大切にされてほしかったのに!」
悔しさが言葉に滲む。
「シリ様は、家のために嫁ぐのです。生き残るために」
「それなら、なぜあの人は母上だけを見ないの・・・」
ユウの言葉は、次第に熱を失っていった。
「妾なんていらない。愛されていてほしいだけなのに・・・」
涙を拭おうともしないユウに、シュリはそっと膝をついた。
「ユウ様の心にあるグユウ様とシリ様の記憶は、誰にも汚せません。
その想いを胸に・・・生きていきましょう」
「・・・生きていくって、そんなに簡単じゃないわ」
「簡単ではありません。でも、ユウ様ならきっと・・・誰かに、まっすぐ想われる日が来ます」
ーー私は、もう・・・ユウ様しか見えないのに。
シュリは、心の内を瞳にこめて見つめた。
シュリの焦がれ様な真摯な眼差しに、ユウの顔は見る見るうちに赤くなる。
ユウは静かに腰を下ろした。
「シュリ・・・隣に」
ユウはベンチの横を軽く叩く。
座れと言う合図だ。
シュリはためらいながらも隣に座る。
少し距離を開けて。
だが、ユウはその距離を詰めた。
・・・心臓が、跳ねた。
ーー近い。
この距離に理由のない緊張が走る。
ユウは何も言わない。
恐る恐る目線だけ動かして、ユウの表情を盗み見る。
ユウは黙って庭を見つめていた。
睫毛の先に残る雫が落ちそうで落ちない。
やがて、ユウはシュリの肩に顔を預けた。
ーー・・・っ。
シュリは動けなかった。
呼吸さえ、どうしていいのかわからなかった。
姫と乳母子。
それ以上でも、それ以下でもない関係。
けれど、この距離には名前が付けられなかった。
「シュリ」
低く、掠れた声が耳元で聞こえる。
姉である以上、涙は妹の前では流せない。
けれど、胸の奥には小さな子どものような悲しみが燻っている。
シュリの前なら、ほんの少しだけ、その弱さを許してもらえる気がした。
「シュリ・・・あなたの前では・・・少しだけ弱くなってもいい?」
その声は少しだけ震えていた。
「そのために、私はここにいます」
シュリはその言葉にすべてを込めて答えた。
ユウは目を閉じ、安らかな吐息をもらした。
雨の名残が、バラの葉からひとしずく落ちた。
それは静かで、あたたかい、誰にも知られないひとときだった。
次回ーー
ユウの胸に渦巻く苛立ちは、父ゼンシの影を思わせるものだった。
「だからこそ……あの子にはシュリが必要なの」
シリは静かに言い切る。
母の願いと不安が交錯する中、雨上がりの風が部屋を通り抜けた。
それは、少女の運命を大きく揺らす前触れでもあった。
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前作のご案内
この物語は、完結済『秘密を抱えた政略結婚』の続編です。
兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。
▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
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