最終話 りんごの花が咲く場所で
翌朝、宿の扉が静かに開き、三姉妹が姿を現した。
レイとウイの顔には、なお沈痛な影が差していた。
だが――ユウだけは違った。
白い朝靄を切るように歩み出る姿は、もう昨夜までの少女ではない。
痛みに耐え、夜の涙を胸の奥に閉じ込めたその瞳には、凛とした光が宿っていた。
背筋は真っすぐに伸び、顎はわずかに上げられている。
まるで母の意思を引き継ぐ者のように。
「・・・行きましょう」
静かに呟いた声に、二人の妹は言葉なく従った。
馬車の前では、サムとイーライが深々と頭を下げて待っていた。
「これより、キヨ様の城へ向かいます」
イーライの声が響く。
そこには、キヨの妻たちがいると聞かされていた。
馬車に乗り込む前、ユウは振り返った。
わずかな石垣を残し、ノルド城からはなお黒い煙が立ちのぼっている。
――あの城で、母に守られ、泣き、笑い、そして恋を知り、口づけを交わした。
母は妃でありながらーー領主でもあった。
気高く、美しい、その姿を思い出す。
「・・・楽しかったわね」
ユウがぽつりと呟く。
ウイは小さく震える声で「はい」とだけ答え、レイは黙ったまま頷いた。
三人はレイを真ん中に並んで座り、互いの体温に寄り添うように肩を重ねた。
やがて、車輪が軋みをあげて回り始める。
馬車は静かに進み、背後にあるノルド城は、少しずつ小さくなっていった。
その煙の向こうには、もう母はいない。
窓の外には、一頭の馬がぴたりと寄り添っていた。
馬上のシュリと目が合う。
ユウは、ゆっくりと頷いた。
シュリもまた、小さく、短く頷き返す。
――これから、どう生きていけばいいのだろう。
いつも頼っていた母を失い、姉妹三人でキヨの元に暮らす日々。
その生活は、想像すらできなかった。
だが、先のことはわからなくても――。
自分には支えてくれるシュリがいて、大事な妹たちがいる。
約束したのだ。母上と。
妹たちを守り抜く、と。
ユウは布に包まれたものを膝の上に置いた。
布の中には、母から託された木像がある。
別れの時に、父から手渡されたそれは、母の心の支えであり、いまは彼女の手に重みを残している。
「・・・血を繋ぐ」
小さな声で呟く。
それこそが、母が生き残り、自分たちに託した願い。
ユウの言葉に、ウイとレイが振り向く。
「セン家と・・・モザ家の血を。私たちで繋ぐのよ」
ユウははっきりと告げた。
「・・・はい」
二人は声を揃えて頷く。
ユウは木像を胸に抱き、再び窓の外へ目を向けた。
背後に遠ざかるのは、黒煙を吐き続けるノルド城。
その前で、少女の声が静かに誓いを刻んだ。
「・・・生き抜いてみせる」
◇
どこか、懐かしい風が頬を撫でた。
シリはゆっくりと瞼を開ける。
「・・・ここは・・・」
視界に広がったのは、見覚えのある景色だった。
豊かな水を湛えるロク湖。
そこから吹き下ろす湖風が、金色の髪をやわらかく揺らす。
つい先ほどまで、火の粉舞うノルド城で命を落としたはずなのに――。
後ろを振り向くと、靄の中にかつてのレーク城が滲みながら佇んでいた。
湖の先には、ぽっかりと浮かぶチク島の影。
ここはワスト領 レーク城。
シリが二十歳の時に嫁ぎ、グユウと暮らした城。
――もしかして。
そう思い、何度も口にしたことのある言葉を呟く。
「・・・ここの景色が、一番好き」
だが、隣に現れるはずの声はなかった。
ーーグユウさんは、ここにはいない。
懐かしさよりも、ただ彼に逢いたいという想いが胸を占めていく。
霞んだレーク城を見つめても、そこに彼がいないことだけは、なぜだかはっきりとわかっていた。
その瞬間、シリの白いドレスは音もなく姿を変えた。
纏っていたのは、かつての乗馬服。
記録の中で色褪せていたはずのそれは、まるで昨日仕立て上がったばかりのように真新しい。
裾には、グユウが望んで注文したという、りんごの花の刺繍が鮮やかに咲いていた。
シリは自らの手を見つめる。
そこにあったのは――ずいぶんと若々しい手。
いつの間にか、時すら巻き戻されているのだった。
シリは、ゆっくりと歩き出した。
柔らかな光に照らされた馬場の先――そこに、一頭だけ馬が繋がれていた。
そこにあったのは、かつて自分が愛用した鞍と鎧。
――レイに渡したはずのものなのに。
黒光りする革を指先で撫でると、驚くほどなめらかで、昨日仕立てられたかのようだった。
馬の背に顔を寄せる。
――あたたかい。
迷うことなく鐙に足をかけ、馬上へと身を躍らせる。
行き先は決まっていた。
領の外れ、懐かしいりんごの木がある場所。
グユウと初めて並んで馬を走らせ、恋に落ちたあの場所へ――。
シリはためらうことなく馬の腹を軽く蹴った。
手綱を握る指は細くとも、そこに迷いは一片もない。
馬は揺らぐことなく、ただ主の意思に従い、静かに、しかし確かに前へと進む。
――確実に。グユウさんのもとへ近づいている。
そんな確信めいた予感が胸を満たしていた。
やがて曲がり角を抜けると、りんごの林が目の前に広がった。
一面に咲き誇る真白な花々。
風が揺らすたび、花びらが雪のように舞い散る。
シリは手綱を引き、馬を止めた。
転がるように地へ降り立ち、息を呑む。
――その花の海の中に。
懐かしい、決して忘れられぬシルエットが立っていた。
「グユウさん!!」
シリは思わず声を張り上げた。
花の海の中で揺れるシルエットが、確かに動いた気がした。
――幻ではない。
胸の奥から熱が溢れ、一心不乱に駆け出す。
満開の白い花びらが、雪のように舞い散る中を。
走っているうちに、不思議なことが起きた。
纏っていた乗馬服は、いつの間にか――。
グユウに贈られた、あのピンク色のドレスに変わっていた。
「グユウさん!」
ドレスの裾を両手で持ち上げ、必死に走る。
近づくほどに、輪郭は鮮明になる。
高い背、すらりとした体つき。
身に纏うのは、かつて自分が贈ったアオサのシャツ。
やがて、その顔がはっきりと見えた。
インクのように黒い髪、白い肌、高く通った鼻、薄い唇。
そして――切れ長の黒い瞳。
――これは幻?
けれど、幻でもいい。
「グユウさん!」
名を叫びながら、シリは走り続ける。
その瞬間、彼はシリをまっすぐに見つめ、微笑んだ。
幻ではない。
「・・・シリ、よく頑張ったな」
懐かしい声が、風にのって届く。
最後の数歩がもどかしくて、シリは思わず駆け込むように――その胸へと飛び込んだ。
――暖かい。
グユウの腕の力強さ、漂う木のような香り。
すべてが、あの頃と変わらない。
「グユウさん! グユウさん!」
シリはその名を呼ぶことしかできなかった。
「・・・シリ」
声を聞くだけでわかる。
彼もまた、喜んでいるのだと。
「・・・待っていてくれたのね」
シリは胸に顔を埋めながら呟いた。
「約束した」
さらに強く抱き寄せられる。
その言葉に、堰を切ったように涙が頬を伝った。
「本当に・・・待っていたのね」
「あぁ。シリが役目を終えるまで、オレは待っていると約束した」
「・・・はい」
「本当は・・・もっと待つつもりだった。三十年ほど、な」
その言葉にシリは顔を上げ、揺れる瞳で彼を見つめた。
「・・・ごめんなさい」
グユウは微笑み、彼女を見つめ返す。
「シリの頑張りを、ずっと見ていた」
「グユウさん・・・私・・・」
言わずにはいられなかった。
彼が知っているとしても、口にしなければ心が落ち着かない。
「再婚してから・・・何度も・・・ゴロクと・・・」
そこから先の言葉は震えて途切れた。
「・・・あぁ」
グユウはギュッと彼女を抱きしめた。
「子供たちを守るために、どれほど苦しかったか・・・オレにはわかる」
その声は優しく、深く。
「オレの願い――セン家の血を繋ぐために。・・・本当によくやってくれた」
「グユウさん・・・」
シリは涙に濡れた顔で、彼の背中をギュッと掴んだ。
「それでこそ、シリだ」
グユウはシリの髪をそっと耳にかけた。
「・・・託してきました。子供たちに。血を繋ぐことを」
「そうか」
グユウは深く頷いた。
「あの子たちなら、きっとやり遂げる」
「・・・シリ」
その名を呼んだあと、彼はふと落ち着かない様子で視線を逸らした。
「どうしました?」
真っ白なりんごの花びらが舞い、シリの頬を撫でる。
その青い瞳に、グユウはかつてと同じように心を奪われていた。
「・・・その・・・口づけをしても、いいか?」
顔を赤らめ、ためらいがちに尋ねる。
その不器用さが、あの頃の彼そのままで。
シリは思わず吹き出した。
「・・・良いですよ」
微笑みを浮かべて見上げると、グユウの顔がそっと近づいてくる。
真っ白な花が舞う中で、二人の唇は静かに重なった。
唇を重ねた瞬間、風がりんごの花を揺らし、白い花びらが雪のように舞い散った。
光を透かして舞う花びらに、二人の姿は包まれていく。
「・・・グユウさん」
囁く声は涙に濡れていたが、その瞳には確かな喜びが宿っていた。
グユウは静かに微笑み、シリを強く抱き寄せる。
その腕の温もりは、十年を超える時を越えて、再び彼女を守っていた。
花吹雪と光に包まれ、二人の影はひとつになった。
まるで永遠を誓うように。
第二部 完
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
この連載<第二部>は約60万文字。
そして、第一部(処女作)は約50万文字。
シリのお話は合計で110万文字に達しました。
ここまで長い物語に最後までお付き合いくださった皆様に、心から感謝いたします。
皆様の応援があったからこそ、書き切ることができました。
シリは、雨日が初めて書いた小説の主人公です。
思い入れがたくさんあって、この11ヶ月の間、彼女は雨日の一部でした。
書き始めたときから、この最終回を想定していました。
1話ずつ書き進めるうちに、彼女との別れが近づくのを感じ、胸がいっぱいになることもありました。
まさか110万文字も書くことになるとは思いませんでしたが――。
テンプレではない、展開の遅い、長い連載。
この物語は「なろう」に不向きだと承知しています。
それでも読み続けてくださった皆様に、心から感謝しています。
◼️
実は――このお話には、続きがあります。
次に描かれる主人公は、シリの娘・ユウです。
110万文字を読んでくださった皆様にとっては、
「まだ、続くの?」と思われるかもしれません。
・・・すみません。
連載を追ってくださっていた読者様はお気づきでしょうが、雨日はしつこいのです。
けれど、この物語にはまだ語られていない未来があります。
ユウ、そしてウイとレイ。
シュリ、リオウ、キヨ――彼らがどのように“血をつなぎ”、生きていくのか。
その続きを、どうか見届けてください。
新章
『秘密を抱えた政略結婚 ―血に刻まれた静かな復讐 禁断の恋が運命を変える―』
2025年10月14日(火)9:20スタート
https://book1.adouzi.eu.org/N9067LA/
◼️ あわせてこちらもどうぞ
◇処女作 シリとグユウの物語
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
・完結済み/約50万文字
・14万PV到達
・政略結婚から始まる、恋と戦と家族の物語
◇短編集 連載では書けなかったグユウの裏側
〈短編集〉『無口な領主と強気な姫の婚姻録』
https://book1.adouzi.eu.org/N9978KZ/
・本編未読でも楽しめる1話完結の小話あり
・不器用な領主の心情や、結婚十日目の出来事など
※10月12日にスピンオフの短編を投稿する予定です。
◇エッセイ 執筆の裏話
『テンプレ?何それ?美味しいの?ライトノベルを一冊も読んだことがないど素人が「小説家になろう」に飛び込んでしまった話』
https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/
小説を書き始めて、11ヶ月。
その間に書いた文字数は138万文字。
・・・やりすぎです。
これからも、
シリとグユウの願い「血をつなぐ」を、姉妹たちがどう生きていくのか。
見守っていただけたら幸いです。
そしてもし、この物語が少しでも心に残ったなら、
感想やレビューをいただけると嬉しいです。
あなたの一言が、次の物語を紡ぐ力になります。
雨日




