母を失った夜 ――「私がそうしたいだけ」
陣を出ると、イーライが深く頭を下げた。
「それでは今夜、お泊まりになる宿へご案内いたします」
「・・・お願い」
ユウの声は小さく、疲労の影が滲んでいた。
馬車に乗り込むと、ユウはすぐに瞼を閉じた。
一睡もしていない。
それは、隣で身を寄せ合う妹たちも同じだった。
「・・・あのキヨという人」
ウイがぽつりと口を開く。
「思ったよりも・・・怖い人じゃなさそう」
「もっと鬼のような顔をしていると思ったのに」
レイが小さく相槌を打つ。
二人の会話に、ユウは加わらなかった。
静かに目を開き、窓の外の闇へと視線を投げる。
◇ノルド城下 宿
到着した宿で、三姉妹と乳母たちは順に浴場へと通された。
石造りの湯殿に、湯気が立ちこめている。
桶に湯を張り、煤と血にまみれた身体を洗い流すたび、灰色に濁った水が静かに流れ落ちていった。
ユウは髪を洗い流し、白い湯気に包まれながら瞳を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、燃え盛る城と、母の最後の笑みだった。
湯の温もりに包まれても、胸の奥の冷えは少しも和らがなかった。
身を清め、部屋に戻ると、豪奢な食卓が待っていた。
鹿肉のソテー、焼き立てのパン、香り高いスープ。
敵領に囚われの身でありながら、これほどのもてなしを受けるなど、あり得ぬことだった。
――キヨという男は、本当に私たちを庇護するつもりなのか。
モザ家の血を利用するため? それとも・・・。
考えれば考えるほど、フォークを持つ手が重くなる。
「姉上・・・美味しいですよ?」
ウイが小皿に鹿肉を取り分け、差し出してきた。
「ありがとう」
ユウは弱々しく笑みを返し、口に運んだ。
柔らかな肉の旨味が広がる。
だが喉を通ると同時に、再びあの男の熱い眼差しを思い出してしまう。
――あのまとわりつくような視線。
気持ちが悪い。
ユウは思わず身を抱きしめ、窓の外へと視線を逸らした。
部屋の片隅で控えていたシュリは、そんな彼女を黙って見つめていた。
無理に笑みを作り、妹たちを安心させようとするユウの横顔。
その影に隠された震えを、彼だけは見逃さなかった。
「今日は・・・姉上と姉様と、一緒に寝る」
レイの黒い瞳が、強く訴えかけてきた。
「・・・ええ。一緒に寝ましょう」
ユウは、母の最後の微笑みを思い出す。
胸を締めつけられながらも、同じように微笑んでみせた。
――少しでも、この子たちを安心させたい。
ユウの顔を見て、ウイもレイもようやく小さく頷き、張りつめていた表情をわずかに緩める。
ユウはその姿に安堵しつつも、自らに言い聞かせるように心の中で呟いた。
――これからは、母上の代わりを務めるのは私。
やがて三人は同じベッドに身を寄せ合った。
レイもウイも、疲れ果てていたのだろう、すぐに眠りへと落ちていく。
しかしユウだけは目を閉じても、眠りは訪れなかった。
母が死んだばかりだというのに、自分はこうして暖かく柔らかなベッドに横たわっている。
その事実が、甘やかな寝息の響く静寂の中で、どうしようもなく胸を疼かせた。
静かな夜だった。
ユウはそっとベッドを抜け出し、白い寝巻きの裾を揺らして隣室のテラスへと歩み出た。
夜風が頬を撫で、月が煌々と天を照らしている。
――母上は、どんな思いで命を終えられたのだろう。
父も母も、そして本当の父である叔父も、炎の中で自ら死へと歩んでいった。
その血が自分にも濃く流れているのなら――いずれ私も、同じ道を選ぶ日が来るのだろうか。
胸の奥に冷たい痛みが広がり、ユウは小さく息を吐いた。
「・・・眠れないのですか」
不意に背後から声が落ちてきた。
振り向くと、そこには静かに佇むシュリの姿があった。
「・・・ええ」
ユウはそっと目を伏せ、吐息のように答えた。
「シュリは・・・?」
「姫様方の護衛です」
「今夜もずっと?」
目を丸くして尋ねるユウに、シュリは淡く微笑み、静かに頷いた。
「あと三十分ほどで交代ですが」
「そう・・・なの」
言葉が途切れる。
二人は並んで月を仰ぎ見た。
「・・・キレイな月ね」
ユウが小さく呟く。
月光が白い寝巻きを照らし、金の髪を淡く縁取る。
「月は・・・いつでもキレイです」
シュリは答える。
だが彼の瞳が見つめていたのは、夜空ではなかった。
ただ隣に立つユウの横顔だけ。
「ユウ様・・・今日は、ご立派でした」
静かな声で、シュリがそう告げる。
「当然よ。私は長女なのよ」
ユウは少し顎を上げ、強がるように答えた。
「・・・少し、立派すぎます」
シュリが苦笑を含んで言う。
「どういうこと?」
ユウが問い返した。
月明かりに照らされた青い瞳は、言葉を失わせるほど澄んでいる。
「本当のユウ様は・・・もっと気性が激しくて、わがままで。
怒ってもいいし、泣き叫んでもいい」
「そんなこと、できるはずないわ」
ユウは強く言い返した。
けれど声は震え、言葉の端がかすれる。
「・・・私は母上と約束したの。レイとウイのためにも、しっかりしなければならないの」
堰を切ったように、頬を伝って涙がこぼれ落ちた。
耐えてきた感情が一気に溢れ出し、夜気の冷たささえその熱を鎮められない。
「そうですか」
シュリはユウの涙に気づかないふりをした。
そうすることが、ユウにとって一番の助けになると知っているからだ。
「だから・・・これからは大人になるの」
その声は震えていた。
「・・・私は、ありのままのユウ様の方が好きです」
思いがけない言葉に、ユウは思わずシュリを見つめる。
「・・・私の前では、泣き叫んでもいい。怒ってもいい。
ものを壊すのは・・・できれば控えてほしいですが」
シュリは月を仰ぎ、淡く笑った。
一瞬、ユウの瞳が揺れ、震える唇の端にかすかな笑みが浮かぶ。
けれど次の瞬間には涙が込み上げて、声にならなかった。
「シュリ」
ユウは思わず抱きついた。
二人の背後に、少し欠けた月がゆっくりと昇っていく。
「どうして? どうして母上は・・・死んでしまったの!」
嗚咽混じりの叫びに、シュリはそっと手を伸ばし、ユウの黄金の髪を撫でた。
「どうして・・・ですかね」
低く静かな声。
「一緒に生きたかった・・・!」
「それが・・・シリ様の望みでなくても、ですか?」
シュリの瞳がユウを真っ直ぐに射抜く。
ユウは口を開きかけて、何も言えずに閉じた。
「・・・わかってる。母上は・・・本当は十年前に父上と一緒に逝くはずだった。
私たちのために・・・生き延びてくれたの」
「ええ」
シュリは静かに頷いた。
「けれど、シリ様は楽しかったと思いますよ。あなたと、ウイ様とレイ様と――過ごした日々を。
悲しみがなかったわけじゃない。でも・・・“我慢していただけ”ではないはずです」
「母上は・・・幸せだったのかな」
ユウの声は涙に震えていた。
「好いてもいない人と・・・再婚までして・・・」
その先に浮かんだ言葉――“全部、私たちのために”――を、ユウは飲み込んだ。
しばし沈黙ののち、シュリが静かに答える。
「・・・幸せだったと思います」
その響きに、ユウは顔を上げた。
――本当かどうかなんて、わからない。
けれど、今の自分が欲しかった言葉を、彼は迷わず口にしてくれた。
ユウの胸の奥で、張り裂けそうな痛みが少しだけ和らいでいった。
「・・・シュリ」
ユウはじっと彼を見上げた。
月明かりに照らされた白い寝巻き姿はあまりに無防備で、かえって危うい。
布地越しに伝わる体温と柔らかな輪郭に、シュリの胸が一瞬ざわめく。
思わず手を伸ばしそうになり、彼は慌てて距離を取った。
「・・・お休みください、ユウ様」
掠れる声でそう告げたのは、心を落ち着けるためでもあった。
突然、ユウはシュリの胸元を荒々しく掴み、強引に顔を引き寄せた。
「・・・まだ眠くない」
言葉を遮るように、唇を押し当てる。
それは柔らかさもためらいも欠いた、嵐のような激しさだった。
驚愕したシュリは目を見開き、身じろぎもできずに受け止める。
――あまりにも衝動的な行動。
怒るかわりに、泣き出すかわりに、こんな行動をしたのだろうか。
母を失った孤独と恐怖が、形を変えて溢れ出していた。
唇をわずかに離したあと、シュリは掠れる声でつぶやいた。
「・・・そんなことをなさらずとも、私はユウ様のそばにおります」
「・・・私がしたいだけよ」
射抜くような青い瞳で答えると、ユウは再び唇を重ねた。
震える指がシュリの衣の胸元を掴み、離そうとしない。
「・・・お願い、離さないで」
声にならぬ吐息が、熱を帯びた唇の間から零れ落ちる。
シュリは一瞬ためらった。
守るべきは主君の娘――そうわかっていながら、震える彼女を抱きしめたい気持ちは抑えがたかった。
やがて両腕を広げ、抱きとめた。
哀しみを炎に変えてぶつけてくるユウを、ただ受け入れるしかなかった。
廊下から足音が近づき、部屋の前で止まった。
戸口の隙間から見えた光景に、ヨシノの心臓が跳ね上がる。
――あの二人・・・!
月明かりを背に、抱き合い口づけを交わすユウとシュリの姿。
声をあげそうになるのを、必死に喉で押し殺した。
ーー想い合っていることには薄々気づいていた。
けれど、まさか・・・ここまでとは。
だからといって、二人の間に割って入る勇気も、度胸もなかった。
胸の奥で、亡き先輩乳母の顔が浮かぶ。
――エマ・・・どうしたらよいのですか。
ヨシノは唇を噛み、視線を床に落とした。
震える指先を握りしめて、ようやく息を吸う。
動揺を隠すために、ヨシノはわざと大きな足音を響かせた。
二人は弾かれたように身を離す。
けれど――互いの瞳は、まだしがみつくように絡み合っていた。
ユウの指先がシュリの袖を震えるように離れ、シュリもまた、名残惜しげに手を下ろす。
「・・・こちらにいたのですか」
息を整え、ヨシノは扉を開け穏やかな声で問いかける。
シュリは俯き、ユウは振り返りもせずに短く答えた。
「月を見ていたの」
「もう・・・お休みになられては」
ヨシノはそう提案した。
シュリは深々と頭を下げ、部屋を退出しようとする。
だが、その背を呼び止める声があった。
「・・・シュリ」
振り向いた先、月光を浴びるユウは微笑んでいた。
「今夜は・・・よく眠れそうだわ」
「・・・おやすみなさい」
応えたシュリの瞳には、言葉にならぬ想いが渦巻いていた。
本作は、今日の夜に完結を迎えます。
約11ヶ月、二つの物語を合わせておよそ110万文字。
長いようで、あっという間の旅でした。
この世界に共に生きてくださった読者の皆さまへ、
心からの感謝を込めて。
――そして。
小説裏話をエッセイにまとめました。
<小説裏話>5ヶ月で60万文字を書いた作者、燃え尽きる。・・・はずだった。
https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/
よければ、そちらも覗いていただけたら嬉しいです。
――次回、最終話。
りんごの花が咲く場所で。
本日の20時20分に更新します。




