裏切り者に託されたもの
春の風がユウの髪を優しく撫でた。
その感触は、遠い昔に父の手で撫でられた時の温もりを思い出させる。
胸の奥に淡い痛みが広がりながら、ユウは隣に座るレイの肩にそっと手を置いた。
レイは小刻みに身体を震わせていた。
隣に座っているユウもまた抑えようとしても、震えが足元から湧き上がってくる。
ーー自分は長女。母から妹たちを託されている。
しっかりしなければ。
ユウは不安げに振り返り、後ろに立つシュリと視線を合わせた。
わずかに肩を傾ける。
その意図を察したシュリが、そっと肩に手を添える。
――ここにいます。
言葉にせずとも、その眼差しは温かくユウを包んだ。
ユウは瞼を閉じ、ひと息。
次の瞬間には毅然と顔を上げ、前を見据えていた。
毅然とした姉の姿に、妹たちはただ黙って寄り添った。
その一連のやりとりを、陣の端でイーライが見ていた。
黒い瞳には疑惑だけではなく、羨望とも憧れともつかぬ光が宿っている。
やがて土煙を上げ、サムが陣に戻ってきた。
長椅子に並んで城を見守る三姉妹を見て、思わず息を呑む。
背後に立つシュリと目が合い、二人は無言で頷き合った。
サムが馬から降りると、イーライがすぐに歩み寄ってきた。
「サム殿・・・キヨ様への報告は、私が・・・」
必死に言いかけたイーライを、サムは首を振って制した。
「いや、私がする」
短く言い切るその声音には、重い決意が滲んでいた。
イーライは唇を噛み、深々と頭を下げる。
「・・・すみません」
ーー冷静であることが自分の矜持だった。
その矜持が崩れ落ちていく。
サムはそんな彼をしばし見つめた。
「謝るな。お前に任せれば、あの方々はもっと疑われるだろう」
言葉は冷たくもあったが、それは若さゆえに情を隠せぬイーライを案じてのことだった。
イーライは拳を握り、言い返せずにいた。
遠く、城を揺るがす轟音が響く。
「・・・俺たちの務めは、あの三人を守り抜くことだ」
サムが低く告げると、イーライはこくりと頷いた。
イーライは手を止め、サムへ問いかけた。
「あの者は・・・何者なのでしょうか」
視線の先には、ユウの肩に手を添えるシュリの姿。
「姫に男の乳母子とは・・・奇妙な距離に見えます」
イーライの端正な顔に険しさが走る。
「俺も最初は驚いたよ」
サムは淡々と馬具を磨きながら答えた。
「ユウ様がまだ四つの頃だったか・・・城中の者が首をひねった。姫に乳母子とはなぜか、と」
「・・・」
イーライは目を細める。
ユウとシュリが目線ひとつで意思を交わすたび、胸に言いようのないざわめきが広がる。
「グユウ様の判断だった」
サムは衣の首元を緩め、遠い目をした。
「今になって思う・・・ユウ様の歩む道のりが、どれほど険しいかを予期していたのだろう。
父君だけでなく、こうして母君も失うのだからな」
その声音には切なさが滲んでいた。
続けざまに、キヨの執念に満ちた眼差しを思い出し、背筋がぞくりと震える。
「グユウ様は・・・予想していたのだ。ユウ様の未来を」
「そう・・・でしょうか」
普段なら冷静なイーライの声に、焦りがにじんでいた。
サムはじっと彼を見据え、低く言った。
「・・・お前らしくないな」
イーライは口を噤む。
本来なら理路整然と振る舞えるはずなのに、ユウを前にすると胸の奥が乱れる。
「すみません・・・」
絞り出した声には、戸惑いと悔しさが混ざっていた。
サムは小さく首を振り、静かに告げる。
「城が落ちれば、キヨ様のもとへ姫様方をお連れする。・・・その準備を」
「はっ」
イーライは深々と頭を下げた。
だが視線は一瞬、長椅子に座るユウへと吸い寄せられていた。
◇ノルド城
城門が破られ、鬨の声とともに兵たちが雪崩れ込む。
ノアは槍を握り、先頭に立って突撃した。
だが正門へ殺到する大軍とは異なり、ノアと配下の一行は脇へ逸れていた。
目指すは厨房の奥にある裏門――。
ノルド城に仕えていた自分だからこそ知る抜け道。
そこから潜入すれば、真っ直ぐにゴロクの首へ辿り着ける。
「急げ!」
ノアの声に兵が一目散に裏門を目指す。
その時――。
「ノア殿」
落ち着いた声が、城内の廊下から響いた。
ノアは足を止め、振り仰ぐ。
窓辺に、松明を掲げたマナトが立っていた。
「・・・マナト」
上ずった声が喉から洩れる。
廊下の窓から、マナトはいつものように静かに頭を下げた。
裏切りを責めるでもなく、憎悪を込めるでもなく――かつてと変わらぬ仕草。
ざわめく兵たちが一斉に弓を構え、窓辺の男へ狙いを定めた。
「よせ」
ノアが手を挙げて制する。
「マナト・・・何の用だ」
マナトは、微塵も揺れぬ声で答えた。
「これから、この城に火を放ちます」
「な・・・」
ノアの息が詰まる。
「・・・石造りの城に火を放っても、意味はないだろう」
かろうじて返した反論は、震えていた。
「その通りです」
マナトは頷いた。
「だからこそ、あちこちに爆薬を仕掛けてあります。
火が入れば・・・すぐに引火し、城は爆ぜる」
淡々とした説明に、兵たちがどよめく。
「虚言かもしれん!」
「潜入を防ぐための口実だ!」
口々に疑いの声が上がった。
だがノアは答えなかった。
じっと窓辺の男を見つめる。
松明を掲げる手は微動だにせず、瞳は穏やかに澄んでいる。
それは――幾度も戦場を共にした、あの時のマナトの顔だった。
「マナト・・・なぜ?」
ノアの唇は震え、そこから先の言葉が続かなかった。
――裏切ったはずの自分に、なぜ忠告をする?
自分が裏切ったからこそ、この城は落城寸前なのに。
それなのに、なぜ。
マナトはノアの胸中を察したように、小さく頷いた。
「・・・きっと、ゴロク様なら。私と同じ判断をされると思ったからです」
穏やかな笑みを一瞬だけ浮かべ、すぐに顔を引き締める。
「だからこそ・・・姫様方を、頼みます」
ノアの喉が詰まり、声は掠れた。
「・・・わかった」
「それでは・・・ご武運を」
炎に照らされたその微笑みは、奇妙なほど静かで、美しかった。
マナトは静かに頭を下げ、松明を掲げたまま窓を閉ざした。
ノアはしばし立ち尽くしたのち、奥へ足を運ぶ。
「・・・逃げるぞ」
かすれる声で放った指示に、背後の兵たちが一斉に息を呑んだ。
「ノア様、それでは!」
反論の気配に、ノアは勢いよく振り向き、叫んだ。
「すぐに退け! この城が爆ぜれば、我らの命も危うい!」
凄烈な声に兵たちが押し黙る。
「全軍に告げよ!退却だ! ・・・キヨ様にも伝えろ!」
その瞬間、ざわめいていた兵たちが一斉に息を呑み、場が凍りついたように静まり返る。
鬨の声と火矢の轟きが遠くで響いているのに――この場だけは、時が止まったかのようだった。
そして次の瞬間、兵たちが一斉に動き出す。
ノアの胸には、血のように熱く、冷たい痛みが同時に流れていた。
次回ーー
鐘の音が爆煙の向こうで鳴り響く。
それは鎮魂の調べか、それとも新たな戦の始まりか――。
城下町に立つユウの頬を、熱い涙が伝った。
「・・・母上」
燃え盛る炎は遠く、手を伸ばしても届かない。
春の風の中、ただ鐘の音だけが響いていた。
完結まで、あと7話
◎エッセイ更新のお知らせ
まもなく完結を迎えるエッセイについて書いています。
「モブの家臣なんて、読者は誰も覚えていない」と言われた件について。
https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/
衝撃の指摘でした。




