私の最期を、あなたの手で
毅然と立ち尽くすユウの姿に、イーライは思わず息を呑んだ。
薄明に縁取られた横顔は、気高さと儚さを同時に宿していて、胸の奥を強く揺さぶる。
その一瞬、時間が止まったかのように彼は見惚れていた。
だが――煙の匂いが鼻を刺し、はっと我に返る。
ーー自分がただ見つめているだけでは許されない。
何かしなければ。
「・・・長椅子を!」
慌てて兵に声を飛ばし、陣から椅子を運ばせる。
椅子が目の前に置かれると、イーライは控えめに口を開いた。
「お掛けください。・・・その、よろしければお茶でも」
場違いとも思える申し出。
けれど、それは精一杯の誠意であり、彼なりの必死の気遣いだった。
ーーこの状況でお茶。
イーライの提案に、ユウはわずかに目を見開いた。
その言葉に、ユウの胸はふっと揺れた。
――母上も、よくそう言っていた。
「まずはお茶を飲みなさい」
そう言って、戦や不安をひととき忘れさせてくれた。
一瞬だけ、胸に母の面影が浮かんだ。
「お疲れでしょうから」
イーライは視線を逸らし、頬を赤らめて付け加えた。
「・・・頂くわ」
ユウは小さく目を伏せて答える。
イーライが陣の中に姿を消すと、ユウは妹たちへ視線を向けた。
「座りましょう」
レイは素直に頷いたが、ウイはじっとユウの顔を見つめた。
「姉上・・・真ん中に座ってもらえる?」
しがみつきたい思いが、その声ににじんでいた。
ユウは静かに首を振った。
「レイが真ん中に座って」
――そうだった。
ユウと一歳違いの自分とは違い、レイはまだ十一歳。
感情を表に出さないとはいえ、初めての落城だ。
不安な時、姉と自分に挟まれれば少しは落ち着くだろう。
「・・・そうね」
ウイは恥ずかしそうに俯き、ちらりとユウを見やった。
――姉上は、この数時間で急に大人になってしまった。
まるで遠くへ行ってしまうように。
やがて、イーライが戻ってきた。
手には盆を持ち、その上には湯気を立てる三つのカップが並んでいた。
「ミルクはありませんが・・・」
そう言って一礼し、長椅子の前に静かに置く。
ユウはしばらくカップを見つめた。
――母上も、きっと同じように茶を差し出したのだろう。
そんな錯覚が胸を締めつける。
唇を寄せ、ゆっくりと口に含んだ。
「・・・美味しいわ」
思わず漏れた小さな声。
自分でも驚くほど、芳醇な香りと温もりが胸を和らげていく。
――母がいる城が攻撃されている。
こんな時に「美味しい」と思う自分がいるなんて。
ユウは目を伏せ、複雑な心でカップを置いた。
「ありがとうございます」
イーライが頭を深く下げる。
ユウに褒められたイーライは、思わず胸が熱くなった。
だが次の瞬間、自分がこの戦の最中に紅茶を勧めていることに気づき、
ひどく場違いなことをしているのでは、と頬を赤らめた。
――それでも。
彼女に「美味しい」と言わせたくて、手を動かしたのも事実だ。
同時に思う。
だからキヨ様は、自分を姫たちの傍に置いたのだろう。
剣ではなく、人の心を和ませる役として。
けれどその意図に気づくほど、胸の奥にじわりと不安が広がった。
これは忠義なのか、それとも・・・別の何かか。
「・・・あなたが淹れたの?」
ユウは静かな眼差しでイーライを見た。
「はっ。私は騎士ではなく、城下町で仕えていた頃にキヨ様に拾われました。
茶を淹れることは得意でございます」
ユウは黙ってもう一口飲んだ。
――なるほど、だからキヨは彼を側に置いたのだ。
人の心を読み、気を利かせる。
そういうことを、自然にやってのける。
イーライを自分たちの元に配置したのも、キヨの思惑なのだろう。
ーーこれからは、武力だけでなく、人の心をつかむ力が時代を動かす。
そう思うと、なおさら悔しかった。
城から漂う煙の匂いが鼻を突き、ユウは唇を噛みしめて俯いた。
◇ ノルド城
シリとエマは廊下を歩いていると、鼻を刺すような独特の匂いに足を止めた。
ふと横目に見た奥の廊下では、兵たちが絨毯に液体を撒いている。
「・・・何を撒いているのでしょう」
エマが怪訝そうに眉を寄せる。
「油よ」
シリは静かに答えた。
「油・・・」
呟いた瞬間、エマの顔色がさっと青ざめた。
シリは言葉を継がず、ただ小さく頷いた。
敵に攻め落とされる前に、城を炎で包み、各地に仕掛けた爆薬を爆ぜさせる――。
それが、ゴロクの下した最後の命令なのだ。
ゴロクの執務室の扉を、シリは軽く叩いた。
「入れ」
重々しい声が響く。
扉を開けると、ゴロクとマナトが窓辺に立ち、城門を見下ろしていた。
マナトは振り返り、シリに深く頭を下げる。
その時、老臣ハンスが駆け込んできた。
「ワスト領――キヨの兵が、まもなく城門を突破いたします! 先陣は・・・ノア!」
息を荒げる声に、部屋の空気が一気に張り詰める。
シリは思わず息を呑み、ゴロクのがっしりとした背中を見つめた。
「・・・それで良い」
低く洩れた言葉に、ハンスの目が大きく見開かれる。
「それで良いのだ」
ゴロクは視線を窓に戻し、遠くの城門を見据えた。
「ノア・・・お前になら――」
その声はどこか誇らしげで、どこか安らかだった。
「喜んで討たれる」
「ゴロク・・・」
シリが口を開いた。
ゴロクはゆっくりと振り返る。
「あなたは、立派な領主です」
シリは真っ直ぐに彼を見つめた。
二人の背後には大きな窓があった。
そこからは、城門を打ち破ろうとする槌の轟音が響き、兵たちの鬨の声が幾重にも重なって押し寄せてくる。
焚かれた松明の煙が風に流され、かすかに部屋へと忍び込む。
焦げた油の匂いが薄く漂い、胸をざわつかせる。
戦の喧騒に囲まれながら、部屋の中だけが不思議に静かだった。
その静けさの中で、シリとゴロクは向き合い、言葉を交わしていた
「そんな、あなたを・・・心から尊敬しています」
その言葉に、マナトとハンスは深く頷き、静かに頭を垂れた。
「マナト、ハンス、準備を頼む」
ゴロクの低い声に二人は退出し、エマに視線を向ける。
「エマ。少しだけ席を外してくれないか。・・・シリ様と話がしたい」
エマは黙って一礼し、部屋を後にした。
静寂が残る。
「シリ様・・・」
ゴロクは向き合い、シリの手を取った。その手を強く握りしめる。
「先ほどのお言葉・・・とても嬉しく、誇らしい気持ちです」
「ゴロク・・・」
「もうすぐこの城は落ちます。・・・お気持ちは?」
問いかけながらも、ゴロクには分かっていた。
揺るぎない覚悟を宿した眼差し。
背筋を伸ばした凛とした姿。
「変わりません」
短く、力強い言葉。
その答えに、ゴロクは顔を歪めた。
「必ず・・・お守りする約束をしましたのに・・・申し訳ない」
堪えきれず、頬を伝った涙が床へ落ちる。
「これで良いのです」
シリの声は静かに響いた。
「あなたは・・・モザ家を守ってくれた」
「しかし・・・」
ゴロクは膝をつき、頭を垂れた。
それは領主に懺悔する家臣の姿に見えた。
「私が望んだ未来は・・・娘たちに託しました」
シリは手を差し伸べる。
「ゴロク。私の最後の願いを・・・叶えてくださいますか」
ゴロクは顔を上げ、その手を取り立ち上がった。
「・・・なんでしょうか」
切実な瞳がシリを映す。
「私の首を一番に斬ってください」
シリは微笑みながら言った。
「シリ様・・・それは・・・」
ゴロクが息を呑む。
「あなたは・・・腕の立つ騎士だった」
シリの声は穏やかで、揺るぎなかった。
「だからこそ・・・眠るように、速やかに」
沈黙のあと、ゴロクは深く頷いた。
「・・・承知しました」
シリはほっと微笑んだ。
「それならば・・・心強いわ」
次回ーー明日の9時20分
突入したノアの前に現れたのは、松明を掲げたマナトだった。
「この城には火薬が仕掛けてあります」
穏やかに告げられた言葉は、裏切り者の胸を切り裂く。
姫を守る者と、城を捨てる者。
それぞれの決断が、次の瞬間を切り拓いていく――。
完結まで、あと8話、ブックマークありがとうございます。最後までよろしくお願いします!




