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託された約束 ― 最後の陽の光の中で ―

シリとエマは、城の薄暗い廊下を歩いていた。


一歩進むごとに、死へと近づいていく。


外では無数の敵兵に囲まれ、兵たちのざわめきが響き、火薬の匂いが鼻を刺す。

身体の震えが止まらない。


ーー覚悟はしていた。


城に残ることを。


生き残り、夫と子を殺したキヨの妾となり、女としての生き恥をさらす。


そんな惨めな姿を娘たちの前に見せたくはない。


モザ家のためにも、これが最善の選択だった。


後悔はない。


けれど――生き抜くことと同じように、死ぬこともまた難しいのだ。


息をし、心臓が鼓動し、冷えた空気が頬を撫でる。


その一つひとつが、ありがたいと思えてしまう。


こんなこと、死が目前でなければ気づかなかった。


グユウもまた、死の直前にこの想いを抱いたのだろうか。


そう考えた瞬間、シリは足を止めた。



「エマ」

シリはゆっくりと振り返った。


そこには、三十五年もの間、自分を見守り続けてきたエマが、覚悟を決めた顔で立っていた。


シリはその頬に手を添える。皺の刻まれた肌が、なぜか懐かしく愛おしかった。


「・・・本当に良いの?」


ーー分かっている。


エマは覚悟している。


それでも問わずにはいられない。


覚悟を決めた自分ですら、死が怖いのだ。


「逃げるのなら・・・まだ間に合うわ」

震える声で告げる。


「シリ様は・・・城に残られるのでしょう?」

エマが静かに答えた。


大きく息を吸い込もうとしても、胸で詰まってしまう。


「・・・残るわ」


「それなら、私も残ります」

淡々とした口調に、揺るぎない意志があった。


「エマ・・・」


ーー幼い頃からずっと寄り添ってくれた乳母。


ゼンシに乱暴された時も、何も言わずに側にいてくれた。


グユウとの婚礼の馬車にも同乗し、落城寸前のレーク城でも共に残った。


夫を亡くした絶望の時も、再婚の時も・・・いつだって、自分の隣にはエマがいた。


「・・・エマ、ごめんね」

シリの瞳に涙が溢れた。


「謝らないでください、シリ様」

エマの声は、母のように優しかった。


その言葉に、シリの胸は疼いた。


ーー自分が選んだ道は、妃としては異例の死に方。


女は本来、命を保護される存在であり、城に殉じるのは領主の役目だ。


もし、自分が城を抜け出し、生き延びていたら――。

エマもまた、生きることを許されただろう。


大事な娘たちの成長を見守り、孫のように抱きしめ、やがてその子どもを腕に抱く日も訪れたはずだ。


そしていつか終わりの時が来れば・・・エマを看取るのは、自分の役目だった。


ずっとそう信じてきた。


それなのに。


自分の決断が、エマの人生をも終わらせる。


そう思った瞬間、胸の奥がたまらなく締めつけられた。


「私は・・・エマを幸せにしたかった」

シリの頬を、止めどなく涙が伝った。


寄り添い続けてくれた乳母。


自分の道のりは決して平坦ではなかった。


その傍らにいたエマも、同じように苦しい道を歩ませてしまった。


「シリ様の乳母になれて・・・私は幸せでしたよ」

エマは微笑んだ。


「違う・・・」

シリは首を振る。


涙は止まらない。


レーク城にいた日々。


エマは薬草を摘み、布を織り、共に働きづめだった。


落城の夜、絶望に沈んだ時も、エマは黙って寄り添ってくれた。


再婚ののちも、愛のない婚姻と戦に巻き込まれ、そして今また落城。


その果てに、自分と共に死を選んでいる。


ーー働き詰めで、苦労ばかりを背負わせてしまった。


本当なら、もっと穏やかで平穏な日々を与えてやりたかったのに。


それなのに。


「エマには・・・もっと幸せになる未来があったはずなのに」


シリの声は嗚咽に溶け、言葉の先はもう出てこなかった。


エマは何も言わず、シリを見つめていた。


その瞳には、ただ愛おしさだけが満ちている。


「シリ様を淑やかな姫に育てるのに・・・随分、苦労をしました」

口にした声は、愛情そのものだった。


『女性は疑問を持たず、口にせず、微笑んでいる方が可愛らしい。殿方に愛される』

それがこの時代の美徳だった。


けれど、手をかけて育てたシリは、その美徳からは遠い娘になった。


聡く、理に合わないことにすぐ気づき、ためらわず口にする。


音楽や茶や花といった女性の嗜みに興味を示さず、裁縫は絶望的。


馬を乗りこなし、戦略を語り、いつも無愛想で、目には鋭さが宿っていた。


ーーこの姫にふさわしい殿方はいない。


それも育てた自分の責任だ、と何度思ったことか。


だが同時に考えた。


もしシリが男に生まれていたなら、きっと立派な領主になっていただろう、と。


美貌の下に秘められたその才と心に、エマ自身が強く惹かれていたのだ。


そして訪れた、グユウとの結婚。


ありのままのシリを認め、愛したあの人の存在は、エマにとっても希望だった。


「淑やかにしなければ殿方に愛されない」

そう口にする必要がなくなったのは、グユウがシリを愛してくれていたからだ。


シリは、シリのままで良い。


その強さと魅力に惹かれたのは・・・。


ーー誰でもない。自分だ。


「最後まで・・・淑やかじゃなくて、ごめんね」

シリは申し訳なさそうに目を伏せた。


「シリ様は・・・シリ様のままで良いのです」

エマは静かに微笑む。


「私は・・・そんなシリ様を、心から尊敬しています」


「エマ・・・!」

シリはこらえきれず、強く抱きしめた。


「最後まで・・・そばにいられて嬉しいです」

エマの頬を一筋の涙が伝う。


「エマ・・・ありがとう」

シリもまた、抱きしめる腕に力を込めた。


少しの沈黙の後、エマが唇を震わせて言った。


「・・・グユウ様と、約束をしたのです」


その瞬間、シリは息を呑んだ。


「え・・・?」

初めて聞く言葉に、シリは涙に濡れた瞳で彼女を見つめる。


「最後に、お願いされました」

エマは自分の涙を拭いながら続ける。


『オレが死んだら、シリはきっと苦しむ。

その時にシリと子どもたちを支えてくれ』


「・・・そうだったの?」


「はい。シリ様を支えることが、私に残された役目でした」

エマは微笑み、静かに目を閉じた。


「そして・・・グユウ様の任務もここで終わらせることができます」


その声は震えていたが、確かな覚悟が宿っていた。


「エマ・・・」

シリはその名を呟くことしかできなかった。


「お二人に仕えることができて・・・私は幸せです」

エマは静かに微笑んだ。


シリはその姿を強く、強く抱きしめた。


東の窓から朝の光が差し込み、二人をやさしく包み込む。


それはまるで、長い旅路の終わりを告げる祝福のようだった。


それがシリとエマが見た最後の陽の光となった。


ーーそして陽は昇り、戦の始まりを告げようとしていた。



この回は、書きながら何度も泣いてしまいました。


シリとエマは、主と乳母でありながら、人生を最後まで共に歩んだ「家族」だと思います。

二人の想いを描くのは苦しくて、それでも書かずにはいられませんでした。


物語はいよいよ終盤です。

この先に待つ出来事を、彼女たちがどう終わらせるのかを見届けていただけたら嬉しいです。


⚫︎新作短編のお知らせ


エマはまた、政略で結ばれたシリとグユウの「夫婦の物語」の証人でもありました。

その一幕を短編にまとめています。


<政略で結ばれた夫婦が、秘密を受け入れた日>


作品ページはこちら

▶ https://book1.adouzi.eu.org/n8008ld/


お腹の子の父親が誰なのか――決して口にしてはいけない。

それでも、夫婦は愛で結ばれていく。


不器用な男と真っ直ぐな妃、その二人を見守る乳母の視点から描いた一篇です。

ぜひ読んでいただけると嬉しいです。



次回ーー明日の9時20分


キヨの本陣に響く報告――「姫たちは城を出ました」。

安堵の笑みを浮かべながらも、その瞳には狂おしい執着の光が宿っていた。


一方、母を残して馬車に揺られる三姉妹。

「母上・・・」ユウの小さな声は、朝焼けに溶けて消えていく。


そして、ただ名を告げられただけの少女に心を揺さぶられた若き兵イーライ。

昇る陽の赤は、希望ではなく運命の転換を告げていた――。




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