母上・・・一緒に出たかった
ウイとレイが馬車に乗り込むのを見届けてから、ユウは後ろを振り返った。
そこにはイーライがいた。
ーーこの男が責任者か。母上に挨拶をしていた姿を覚えている。
少年の名残を残した顔を、ユウは静かに見つめた。
「名は?」
ユウの声に、イーライははっと我に返る。
先ほどまで、母シリを思わせる凛とした気配に圧倒され、
ただ見惚れていた自分に気づいて赤面した。
「イーライ・ショウです」
声は強張っていた。
ユウは静かに頷いた。
「私はユウ・センです」
その一言に、イーライの胸の奥が不意に熱を帯びた。
心臓が早鐘を打ち、息が詰まる。
ただ名を告げられただけの少女なのに、なぜこんなにも胸がざわつくのか、自分でも分からなかった。
「はっ」
イーライは深々と頭を下げた。
ただ挨拶を交わしただけ。
それなのに、この少女には人をひれ伏させる力があるーーそう思わずにはいられなかった。
「私たちはこの馬車に乗ります」
ユウは妹たちの乗る馬車を目で示した。
「はっ」
イーライは頭を下げる。
「もう一台は・・・」
ユウの視線が後ろに控えている別の馬車へ向かう。
ーー本当は、あれに母とエマが乗るはずだったのだろう。
そう思うと、瞳に涙が滲んだ。
「私たちの乳母を乗せてほしいの」
後ろには荷物を抱えた乳母たちが立ち尽くしていた。
「それで・・・良い?」
声は穏やかだったが、有無を言わせぬ迫力を帯びていた。
一瞬、母シリの姿が重なったように思えた。
ーー乳母は使用人だ。その者たちに馬車を与えるなど、到底許されぬこと。
イーライは、そう言いたかった。
けれど、口にはできなかった。
この少女の前では、言葉が喉に貼りついて動かなかった。
イーライは胸のざわめきを押し殺し、息を呑んで頭を下げた。
「・・・承知しました」
「ヨシノ」
ユウは乳母に声をかけた。
「馬車に乗って」
その声音に、誰も逆らえなかった。
ユウは顎を上げ、イーライに声をかけた。
「キヨには、母が城に残っていることを伏せて」
言葉を吐き出した瞬間、胸の奥が痛んだ。
ーー本当は母上と一緒に城を出たかった。
どうして、私たちを置いて城に残るのだろう。
だが、振り返ることはできない。
ユウはまぶたをきつく閉じ、震える唇をきつく噛みしめた。
小さく息を整える。
次の瞬間、鋭い眼差しをイーライに向けていた。
「何? ダメなの?」
その目には、人を圧する力が宿っていた。
イーライは、ただ茫然と立ち尽くしていた。
ーーこれは反論しなければならない。
キヨに報告するのは義務だ。それを偽れというのか。
「・・・それは・・・主に逆らうことを意味しています」
口ではそう答えながら、イーライは視線を逸らせなかった。
その眼差しは、シリを思わせる強さを帯びていた。
ーー姫は弱い立場。
泣いているのを守る存在だと思っていた。
それなのに、目の前にいるこの姫は男の領主のように振る舞っている。
圧倒的な存在感に、逆らうどころか、なぜか胸がざわめいて仕方なかった。
その二人の姿を、後ろに控えていたサムは呆然と見つめていた。
金の髪に優美な顔立ち、伸びた背筋、人を惹きつける存在感ーーまるでシリ様の生き写し。
けれど、青い瞳に宿る光は違った。
母よりも若く、そしてなぜか鋭い。
サムにはそれが何に由来するのか分からなかった。
ただ、言いようのない威圧を感じるだけだった。
「逆らう? 違うわ。あの者を言いくるめれば良いのよ」
ユウがイーライをチラッと見つめる。
「・・・!」
イーライの黒い瞳は驚きに見開かれ、胸の奥がざわついた。
強烈な毒のような目線ーーこの人に見つめられたら動けない。
そんな感覚に言葉を失う。
ーーここまでだ。
サムは目を閉じた。
いくら聡くても、ここを収めるのは若いイーライの役目ではない。
イーライには、あの姫に太刀打ちできないだろう。
重臣である自分が前に出るべきだ。
もっとも、自分にできるか、それも危うい。
サムはスッとイーライの隣へ歩み出た。
「ユウ様・・・お久しゅうございます」
深々と一礼し、その額を垂れる。
一瞬、ユウの姿にシリ様を重ね、胸が熱くなる。
だが、その眼差しは母を超えて鋭く、確かに新しい主の気配を帯びていた。
「あなたは・・・」
ユウの顔が訝しげに曇った。
誰だろう、と目を細める。
ーー無理もない。
姫と重臣が日常で交わることなどほとんどなかった。
ユウが自分を覚えていないのは当然だ、とサムは思った。
その隣で、シュリが迷いなく声をあげた。
「サム様。 お久しぶりです」
乳母の子として育ったシュリは、幼い頃にサムから木剣の構えを教わったり、
言葉をかけてもらった記憶があった。
その懐かしさが込み上げて、自然と声が弾んだのだ。
思いがけず呼びかけられ、サムの表情がふっと和らぐ。
ユウとシュリ――同じ場に立ちながらも、その育ちと距離感の違いが鮮やかに浮かび上がった。
「ユウ様はご記憶にないでしょうが・・・
私はかつて、レーク城でグユウ様とシリ様にお仕えしていた者にございます」
サムは深々と一礼した。
その声音に、ユウの険しい目がわずかに和らぐ。
「・・・そうですか」
サムは静かに顔を上げる。
「ユウ様、先ほどの件ですが、イーライはまだ若く、至らぬところも多い。
ですが、誰よりも忠義と勇気を持った男です。どうか、その働きを認めてやってください」
イーライは思わず息を呑み、サムの言葉に顔を伏せた。
重臣としての言葉が、場をなだめる重みを持って響いていた。
「母上は、自分が城に残っているとキヨに知らせたくないはず・・・」
ユウは言葉を切り、サムをじっと見つめた。
「サム・・・どうすれば良いと思う?」
その瞳には、シリとは違う鋭さと迷いが同居していた。
威圧するようでいて、どこか必死に答えを求める眼差し。
サムは一瞬、息を呑む。
ーーあのシリ様とも、グユウ様とも異なる。
だが、確かに領主の血を受け継いだ眼差しに胸を打たれた。
黙っているサムを尻目に、ユウは口を開く。
「キヨには・・・嘘をつかなくとも良い」
ユウが目を細めて言った。
「それは・・・」
サムが恐る恐る、ユウの顔を見た。
「キヨには、こう報告をすれば良いのよ。『女性たちを避難させた』と」
ユウは薄く微笑んだ。
ーーこの表情・・・!
サムの血の気が引いた。背筋に冷たい汗が伝う。
見覚えがある。
あの恐ろしい領主ーーゼンシ様だ。
戦場で敵を威圧し、ひと睨みで兵を凍りつかせた眼差し。
それは領主の力であり、恐怖そのものだった。
確かにーーゼンシ様の血が、この少女の中で息づいている。
「母上は、イーライを咎めぬようにと手紙に書いたと聞く」
ユウは昇る朝日を見つめながら言葉を継いだ。
サムの隣で黙り込むイーライに、さらに強い眼差しを投げかける。
「あなたを責めることはないわ」
「・・・それが・・・今に相応しい意見かと」
サムが静かに口を開いた。
「サム様!」
イーライが反論しようと声を上げた。
「イーライ、お前の任務はわかっている。けれど、このまま戦を長引かせるのは、
多くの兵の命を無駄にすることになる」
サムが説得する。
悔しそうに唇を噛むイーライにサムが告げる。
「報告は私がする。お前は・・・姫様達を陣まで無事に送り届けるようにしろ」
「承知・・・しました」
イーライが悔しそうに目を伏せる。
「報告が終えたら、私も行く」
サムはそっとイーライの肩に手を置く。
まるで父のような、その仕草にイーライは少しだけ表情を緩めた。
二人が会話をしている間、
ユウは恋しそうな顔をしながら、ノルド城を見つめた。
ーーあそこには母がいる。
その母を残して、ここを去らないといけない。
ユウの辛そうな横顔を見て、サムもイーライも何とも言えない気持ちになる。
次の瞬間、ユウは目線を落とし、再び強い表情になった。
「・・・それでは私も行きます」
その声は少しだけ掠れていた。
シュリが馬車の扉を静かに開けた。
姉の一連のやりとりを馬車の中で聞いていた
ウイとレイが強張った表情で座っていた。
「シュリ、あなたも乗って」
ユウが当然のように指示をした。
「しかし・・・ユウ様」
シュリは反論した。
姫と同じ馬車に使用人である自分は、同乗することはできない。
「良いのよ。私が許可するわ」
ユウが顎を上げる。
「ユウ様、この者は何者ですか」
そこにイーライが割って入る。
イーライの瞳には、何か割り切れぬ思いがあるようだった。
この二人の距離は不自然だ。
城を出る時も、手を繋いで歩いていた。
今も、当たり前のように姫の隣に寄り添う若い男。
イーライの反応に驚いたのは、サムだった。
ーーイーライは、本来そんな事を気にする男ではない。
主の命を全うすることを一番とする。
使用人を乗車させることをーーなぜ気にする?
「シュリは私の乳母子です」
ユウが毅然とした眼差しで、イーライを見つめる。
「乳母子・・・? 姫の乳母子が・・・男?」
イーライが戸惑ったように、シュリの顔を見つめる。
「あぁ。そうだ。昔から・・・ユウ様の乳母子はシュリだ」
サムが口を添える。
「私たち、姉妹にシュリは必要なの。道中、守ってもらうために」
ユウが話すと、馬車の中にいるウイとレイも援護するように頷く。
馬車の扉に手をかけた瞬間、ユウの唇から小さな声が漏れた。
「母上・・・」
東の空は、すでに白く輝いていた。
さっき漏れた『母上』という声を、光がさらっていくように。
その声を聞き、シュリが切なそうに顔を歪めた。
ーー強く振る舞っているけれど、本当は泣き出したいはず・・・。
だが、馬車に乗り込んだ瞬間、ユウの顔は元に戻っていた。
「シュリ、行くわよ」
シュリは、二人に一礼をして馬車に乗り込んだ。
ユウも小さく息を吸い、強い眼差しを取り戻してから静かに椅子に座った。
イーライは慌てて馬に飛び乗り、手綱を握る。
胸の奥のざわめきが、忠義だけによるものではないことを、イーライ自身も薄々感じていた。
姉妹とシュリを乗せた馬車は、ゆっくりと動き出した。
東の空は、すでに白く輝いていた。
残酷なまでに、新しい一日の訪れを告げながら。
感情が詰まった話なので、読んでくださる方もきっと疲れたと思います。
でも、どうしてもこの場面は削れませんでした。
次回ーー本日の20時20分
城に残ることを選んだシリ。
その傍らには、幼い頃から寄り添い続けた乳母エマがいた。
「シリ様は、シリ様のままで良いのです」
抱き合う二人を、朝の光がやさしく包む。
それは、長い旅路の終わりを告げる光だった。




