私のもう一人の息子
「マナト、少しだけ待っていてもらえる?」
シリは涙に濡れた顔で、マナトを見つめた。
「もちろんです」
マナトは静かに頷く。
「・・・これを」
シリが懐から取り出したのは、淡いピンク色の小袋だった。
三人の視線が自然とそれに注がれる。
「これは母が作りました」
シリは少し照れくさそうに、小袋を見つめた。
その瞬間、弾かれたように三人が顔を上げる。
「母上が・・・裁縫?!」
信じがたい顔でユウが呟いた。
裁縫が苦手――それは三姉妹にとって、共通の認識だった。
シリは咳払いをして、居心地悪そうに隣のエマを見やる。
「エマにも手伝ってもらったの」
エマは静かに微笑み、優しく頷いた。
小袋の布地はピンク色に濃い薔薇の刺繍。
どこかで見たような布に、ウイがじっと目を凝らす。
「これは、グユウさんが私にくれた布なの」
シリは刺繍を指で撫でながら、懐かしい顔を思い出していた。
無表情で、不器用に、不安を隠して差し出してきたあの日の彼。
そしてシリは、一つずつ娘たちの前に小袋を置く。
「この中には・・・父と母の髪、そして――あなたたちの兄、シンの髪が入っているの」
「これで・・・いつも一緒よ」
シリは小袋をそっと撫でる。
その中身は、かつて生き別れになったシンが持っていたもの。
夫と息子を失ってからの十年間、シリはその小袋を片時も離さず、首から下げてきた。
その中身を三等分して、娘達に託した。
金色、黒色、鳶色の髪の毛が中に入っている。
――辛い時には、必ず胸元で小袋を握りしめた。
触れるだけで、遠い日々の温もりが蘇り、心の支えになった。
これから先、もう娘たちの傍にいることはできない。
けれどこの小袋が、彼女たちの胸の痛みを和らげ、支えとなるのなら。
シリは、深く祈るような眼差しで娘たちを見つめた。
そして、――これを渡すときに、大切なことを伝えなければならなかった。
シリはエマと目を合わせる。
エマは静かに頷き、一歩前へ進み出る。
「姫様方・・・私もシリ様にお供いたします」
その言葉に、三姉妹の顔から血の気が引いた。
石で頭を殴られたような衝撃。
堪えきれず、ヨシノが嗚咽を漏らす。
「・・・エマも・・・?」
ウイは呆然と声を上げた。
レイはもう耐えられないとばかりに唇を噛みしめ、俯いた。
「・・・嫌よ!」
ユウは堰を切ったように叫んだ。
「母上だけじゃなく、エマまでだなんて!」
その叫びに、シリはただ俯くしかなかった。
――この子たちにとって、エマを失うことは、自分と同じように深い痛手になるかもしれない。
彼女は乳母でありながら、三姉妹にとってはもう一人の母だったのだ。
「私が望んだことです」
エマは優しく微笑んだ。
「十年前も・・・シリ様に寄り添いたいと願いました。
けれどあのときは、姫様方があまりに幼くて・・・私の願いは退けられました」
エマは、愛おしげに三人の顔を見つめた。
「でも今は違う。もう、あの時とは違います」
「嫌・・・私にはエマがいないと・・・!」
ユウの瞳には涙が溢れていた。
「ユウ様・・・あなたの未来が、私の心残りです」
エマは、そっとユウの長い髪を耳にかけた。
――シリにそっくりな少女。
いつも厳しい言葉ばかりをかけてきたが、その裏にある愛情は誰よりも強かった。
「ウイ様の笑顔に、私は何度も救われました」
エマの視線がウイへと移る。
「そして・・・レイ様。あなたの存在は、私とシリ様にとって希望そのものでした」
三人の顔を順に見つめ、最後にユウへと戻す。
「・・・皆様が、幸せになりますように祈っています」
ユウは泣きながら、エマの手を強く握った。
「エマ・・・考え直して」
その必死の叫びを受け止めながら、エマは静かに首を振る。
「・・・死なせてください」
その声は、願いそのものだった。
「最後まで、シリ様のおそばにいたいのです。
それが・・・私の唯一の望みなのです」
エマに縋る、ユウの腕の力が弱くなり、やがて行き場を失い、
崩れるように椅子に座った。
ーー母が死んでしまう。エマもいない。
それを三姉妹は絶望的な気持ちで、受け入れた。
ユウは目を閉じた。
――否定できない。
エマの願いが、あまりにも静かで、強いから。
これは・・・夢に違いない。
悪夢だ。
何度も目を開けたのに、夢から覚めない。
嗚咽と涙の中で、部屋はしだいに静けさに包まれていった。
シリはピンク色の小袋を手に取ると、娘たちに向けて差し出した。
「・・・これで最後です」
三人は震える手でそれを受け取り、涙で布を濡らした。
不器用な縫い目の隣に、確かな針目。
――母とエマ、二人の想いが重なっている。
三人それぞれの涙が、静かに布を濡らしていった。
「そして、これは・・・」
シリは、ゆっくりと視線をシュリへ向けた。
「・・・私の、もう一人の息子に」
思いがけない言葉に、シュリは驚き、声を失った。
「シュリ。昔から・・・シンとユウのそばにいてくれた。ありがとう」
「・・・とんでもないことです」
目に涙を浮かべながら、シュリはかすかに首を振った。
「これからも・・・ユウと、あの子たちを守ってくれる?」
「もちろんです」
シュリは息を吸い込み、はっきりと答えた。
シリは微笑み、囁くように言った。
「あなたがユウの乳母子で良かった・・・。最後の最後で、やっとグユウさんの気持ちがわかった」
ーー長年の抱えていた疑問が解けた。
姫に男の乳母子がつく。
皆が首を傾げる組み合わせだった。
それを指示したのは、亡き夫グユウだった。
あの人は、こんな未来を予想していたのだろうか。
このような状況では、乳母子は力がある男が相応しい。
シュリがいれば、ユウを守ってくれる。
自分の命を賭けてでも。
ピンク色の小袋を差し出した。
「中身は・・・空よ。何を入れるかは、あなたに任せます」
「・・・これを入れます」
シュリは胸元から古びた小袋を取り出した。
「マナト様からいただいた・・・シン様の髪の毛です」
部屋の隅に控えていたマナトが、嬉しそうに頷いた。
「シュリ、大事な務めがあります」
シリは懐から一通の手紙を取り出し、差し出す。
「これを・・・キヨの奥方、ミミ夫人に渡して。あなたの手から」
乳母子の自分に――なぜ、と胸に疑問がよぎる。
だが、それがシリの願いであるなら。
「・・・確かに。お渡しします」
誠実に頷くシュリの横顔を、シリはしばし見つめた。
「・・・ありがとう」
その一言には、十四年分の感謝と信頼が込められていた。
シリは俯き、涙を拭ってから静かに立ち上がる。
「それでは――時が来たわ」
部屋の空気が震え、最後の別れが動き出した。
久しぶりに…数字が動きました涙
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次回ーー本日の20時20分
夜の城門。
毅然と背を向けて歩み去る母の後ろ姿に、ユウは立ち上がった。
「母上! 待って!」
ウイもレイも泣き叫ぶ。
だがシリは一度も振り返らず、ただ静かに扉の前へと進む。
開かれた先には、月光を浴びた兵と馬車。
その中心で片膝をついた青年が、恭しく告げた。
「――お迎えに参りました」




