母の願い――血を残す
「――ここで、あなたたちともお別れです」
城の一階、狭い休憩部屋にシリの言葉が響いた。
沈黙。
三姉妹は、その悲しい宣告をすぐには受け止めきれずにいた。
真っ先に口を開いたのはユウだった。
「母上・・・どういうことですか」
その声は、わずかに震えていた。
「・・・言葉通りです。母はこの城に残ります。あなたたちは逃げなさい」
シリは声の震えを押し殺し、淡々と告げた。
だが胸の内では荒れ狂う波が砕け散っていた。
――気づいたのだ。
別れを受け止める方も苦しい。
けれど、別れを告げる方はさらに・・・胸を裂かれるほど痛いのだと。
十年前、グユウが自分に背を向けた日のことが脳裏をよぎる。
――彼もまた、この痛みに耐えていたのだろう。
どんなに辛い痛みが刺さったとしても、譲れぬ想いがある。
シリは娘たちを強く見据え、はっきりと告げた。
「あなたたちは、生きるのです」
「それは・・・母上は、ここの城に残って・・・死ぬということ?」
ウイは震える手で衣の裾をぎゅっと掴み、蒼白な顔で問いかけた。
シリは一瞬目を閉じ、静かに頷く。
「そうです。母はゴロクと共に、この城で死にます」
――来る。
シリは覚悟した。
この後に、ユウの絶叫が響くはずだ。
納得しなければ前へ進まないあの子は、必ず声を荒げるだろう。
――だが、その時。
「いやっ!」
絹を裂くような悲痛な叫びが、狭い部屋を震わせた。
声の主はユウではない。
レイだった。
彼女は、父親譲りの寡黙さを持ち、幼い頃から感情を表に出さない子だった。
赤子のときから喜怒哀楽を見せず、ただ冷静に周囲を観察する。
――そんなレイが、今は涙に濡れた顔で叫んでいた。
「母上! やめて! 死ぬ・・・だなんて、やめて!」
頬を伝う涙が月光に光る。
その姿に、部屋にいた誰もが息を呑んだ。
蝋燭の炎さえ、彼女の声に怯えるように揺れていた。
「・・・そうよ」
ウイは必死に首を振りながら、涙声で訴える。
「母上、そんなこと言わないでください。・・・一緒に・・・一緒に逃げましょう」
その横で、ユウが無言のまま立ち上がった。
椅子がわずかに軋み、場の空気が張りつめる。
「母上が死ぬのなら――」
ユウは、真っ直ぐにシリを見つめた。
「・・・私も死にます」
その声は震えず、低く澄んでいた。
瞳は戦に赴く兵士のように強く、揺らぐことがなかった。
シリは息を呑む。
――あの眼差し。
かつて自分が、愛する者を守るために死を覚悟した時と同じ。
その決意の炎を、娘の中に見た。
後ろに控えていた乳母たちに、ざわめきのような動揺が走った。
シリが城に残ることは前もって聞かされていた。
だが、姫たちの反応は、ユウが騒ぐだけだと思っていた。
ーーまさか、大人しいウイとレイが強く反発するなんて。
誰一人として予想していなかったのだ。
シュリの掌にはじっとりと汗が滲んでいた。
柄に添えた指先が、かすかに震えている。
ユウの表情――あれはまずい。
決して譲らぬ時の顔だ。
沈黙の中で、誰もが視線をシリの背に向けた。
まるで、その背に答えを刻ませるかのように。
ーーこの難局をどう乗り越えるのか。
すべてはシリに委ねられていた。
ユウの言葉に、部屋の空気が張りつめた。
短い沈黙のあと、シリは娘を真っ直ぐに見据える。
「――それはダメです」
その眼差しは毅然として揺らがなかった。
だがそこには、娘を思う深い愛情と、母としての痛みも宿っていた。
「なぜですか。私はできません。母上を残して逃げるなんて!」
月の光を浴びたユウの顔は、恐ろしいほどの迫力に満ちていた。
この状況で、彼女の心の中で何かが弾けたのだ。
激しい激情、抑えきれぬ憤り。
見えない力がユウから溢れ出し、部屋にいる者すべてを圧する。
シュリは息を呑み、ウイとレイは泣きじゃくった。
「・・・あのキヨの元に行くなら、私も死にます!」
ユウの瞳は、あの兄ゼンシのものと同じ光を宿していた。
黙って見つめるシリに向かって、ユウは叫ぶ。
「生きていても・・・! キヨの元で生きるのなら、母上と死にます!」
「それはダメです」
シリは強い口調で否定した。
「どうしてですか!」
ユウがものすごい勢いで食ってかかる。
シュリが一歩前に出て、ユウを諫めようとした。
だが、シリは手を伸ばしてそれを制した。
「座って」
シリの声も鋭く響く。
ユウは反抗的な目をしたまま、渋々と椅子に腰を下ろした。
「あなたたちを生かすことが、グユウさんの最後の望みでした」
その名を口にした瞬間、シリの声にわずかな震えが混じる。
「レーク城で私は、グユウさんと共に死のうと願った。死ぬことなんて怖くなかった・・・」
シリの声は次第に小さく、掠れていく。
「それよりも・・・好いている人の死を見届ける方が・・・ずっと怖かった」
「母上・・・私たちに、その苦しみを味わせるのですか」
ウイが涙に濡れた顔で問いかける。
「・・・そうです。セン家の血を残してほしい。それが、私とグユウさんが交わした約束なの」
シリはあの時を思い出すように声を詰まらせ、俯いた。
だが、すぐに顔を上げる。
「だから私は、レーク城から逃げた。あなたたちに生きてほしいから」
シリはそっと立ち上がり、三人の肩を抱き寄せた。
「まもなくモザ家も滅びます・・・」
その言葉に、ウイとレイははっと目を見開く。
シリは愛おしそうに娘たちの顔を見渡した。
「あなたたちには、セン家とモザ家の血が流れているの。
生きて・・・その血を残してほしいの」
ユウの瞳が揺れる。
シリはしっかりと頷いた。
「・・・それが、母の最後の願いなのです」
三姉妹は、誰も言葉を返せず、ただ母を見つめていた。
次回ーー本日の20時20分
告
「――ここで、あなたたちともお別れです」
母の言葉に、三姉妹の心は揺れた。
シリはそれぞれに遺品を託し、最後の願いを語る。
――生きて、血を繋ぎなさい。
その想いを抱いたまま、母と娘の最期の時が迫っていた。




