ここで、あなたたちともお別れです
夕闇が落ち、ノルド城の大広間は数え切れぬほどの松明とろうそくで明るく照らされていた。
重い扉をくぐると、数百の兵が集まり、ざわめきと笑い声が渦のように広がっている。
重厚な木の卓には、城内からかき集めた保存食や干し肉、酒樽が並んでいた。
「さぁ!酒宴を開くぞ!」
ゴロクの声が響いた途端、兵たちのざわめきが一斉に静まる。
年老いた領主の声は掠れていたが、その瞳にはなお確かな光が宿っていた。
「この世との別れの酒だ。共に杯を交わそう!」
杯が一斉に掲げられ、広間は大きな歓声に包まれる。
笑い声、木杯のぶつかり合う音、漂うワインの香り――。
その熱気は、戦を前にした不安をかき消すかのように広がっていった。
ゴロクの隣に座すシリは、その光景を静かに見つめていた。
目の前の大皿には、ゴロクの好物であるタラのフライが盛られている。
嬉しそうに目を輝かせる夫に、シリは微笑んだ。
「厨房の者が・・・用意してくれたのよ。最後の・・・」
そこから先は言葉にならなかった。
だが、ゴロクはすべてを悟ったように頷き、「ありがたい」と短く答えた。
やがて歌や太鼓が鳴り響き、宴の熱はさらに高まっていく。
その賑わいの片隅で、三姉妹は身を寄せ合うように座っていた。
背後にはシュリが控えている。
「姉上・・・なぜ、こんなに騒いでいるのですか」
青ざめた顔で、ウイが囁く。
「城は・・・敵に囲まれている」
レイが小さくつぶやいた。
「いよいよ、城が落ちるのよ」
ユウは食事に手をつけず、前をまっすぐに見据えた。
「養父上は覚悟を決めている・・・これは、この世と別れるための酒宴なの」
「姉上・・・怖い」
ウイの声は震え、レイは黙ってユウの袖を掴む。
「・・・その時が来たら、母上と一緒に逃げるのよ」
ユウは緊張を隠しきれぬまま、シリの顔を強く見つめていた。
兵たちの声は夜空に届くほど高まり、やがて城の外にまで響いていく。
ゴロクは、老兵たちの肩を抱き、何かを呟いていた。
老兵たちは跪き、涙を流しながら笑っていた。
その熱気の底で――誰もが心のどこかで悟っていた。
この宴は、二度と戻らぬものだと。
シリは窓の外を眺める。
丸く大きな月が、窓のむこうで輝いていた。
月の高さは思いのほか早く進んでいた。――あっという間。
ふと、娘達の顔を見る。
ーー決めた事とはいえ、辛い。
本当は、ずっとそばにいたかった。
その髪を撫で、瞳を見つめ、抱きしめて、
彼女達が嫁ぐ日を見届けたかった。
揺れる心を落ち着かせるように、息を吐く。
自分の進む道、あの子達には歩ませない。
娘との別れが迫っている――それこそが、最期にして最も苦しい務めだった。
覚悟を決めるようにゴロクへと視線を送り、静かに口を開いた。
「・・・それでは、行って参ります」
ゴロクはゆっくりと頷く。
「姫様たちを頼む」
立ち上がったシリは娘たちの方を見た。
ユウが即座に頷き、妹たちへ声をかける。
「行きましょう」
唇を震わせながらも、声だけは揺るがなかった。
ウイとレイは顔を見合わせ、小さく息を呑んだ。
その背後には、シュリと乳母たちがぴたりと寄り添う。
広間から出る時、三姉妹は深々と頭を下げた。
遠くに座っている、ゴロクは、その礼に応えるかのように、
ゆっくりと杯を上げて頷いた。
ーーこれが最後の別れ。
扉をゆっくりとヨシノが閉めた。
大きな窓から煌々とした月明かりがホールに差し込む。
その月光はシリの身体を包み、真っ青な瞳は強く光を放っていた。
「行きましょう」
そう告げ、城の地下へと続く階段へ足を運んだ。
喧噪の続く広間を背に、彼女たちの歩みだけが、静かに夜を裂いていた。
「母上、どこから逃げるのですか?」
ユウが疑問を口にする。
「厨房のさらに奥にある裏戸口よ」
シリは歩みを止めずに答えた。
「さすがに正門からは抜け出せないわ」
やがて厨房の隣にある小部屋の前にたどり着くと、シリは扉を開いた。
「――ここで話があるの」
思いがけない言葉に、三姉妹は驚いた顔を見合わせる。
「母上・・・そんな時間は・・・」
もうすぐ戦が始まる。
のんびりと話をしている状況ではないことは、戦に疎いウイですら理解していた。
「話なら・・・城の外でも・・・」
レイが小さくつぶやく。
「いいえ、今、話したいの」
シリは窓の外に目をやり、月の高さを確かめるように静かに頷いた。
「――入って」
三人は訳もわからぬまま部屋に入った。
そこは粗末な造りの休憩部屋で、厨房で働く者たちがひと息つくための場所だった。
「座って」
シリは娘たちに椅子を勧める。
ユウはウイとレイと一瞬視線を交わした。
――母が何を考えているのか、さっぱりわからない。
けれど、ここは話を聞こう。
言葉にせずとも、視線でそう意思を確かめ合う。
三姉妹の背後に控えるシュリも戸惑いを隠せぬ顔をしていた。
さらに、その後ろには乳母たちが銅像のように立ち尽くしている。
サキはとうとう堪えきれずにハンカチを取り出した。
エマは粗末な燭台に蝋燭の火を灯す。
しかし、それさえ要らぬほど、窓からは強い月光が差し込んでいた。
「ユウ、ウイ、レイ・・・」
シリはゆっくりと口を開き、愛おしそうに娘たち一人ひとりの顔を見つめた。
ユウは唇を固く結び、ウイは不安げにレイの手を探る。
その小さな仕草さえ、シリの目には焼き付けるべき最後の光景だった。
「――ここで、あなたたちともお別れです」
えっ・・・。
三人の喉から、言葉にならぬ息だけが洩れた。
次回ーー明日の9時20分
「――ここで、あなたたちともお別れです」
シリの言葉に、娘たちは凍りついた。
逃げよと命じる母、共に死ぬと叫ぶユウ、泣き崩れるウイとレイ。
揺れる蝋燭の光の中で、母と娘の愛と決意が激しくぶつかり合う――最期の対話が始まる。




