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さらばーーわしの分まで強く生きよ

シリの部屋から出てきたユウの顔を見て、シュリは思わず頬を緩めた。

これまでに見たことのないほど、澄んだ瞳をしている。


――どんな話をしたのかは知らない。けれど、きっと実りのあるものだったに違いない。

シュリはそう確信した。


二人は肩を並べて、妹たちが待つ客間へと歩き出す。

数歩進んだところで、重臣マナトと出くわした。


「ユウ様」

深々と頭を下げる姿に、ユウも立ち止まる。


「マナト・・・体調は」

「問題ありません」


そう答えたマナトの目の下には、疲労の影が濃い。


――眠る暇などあるはずもない。


ユウはすぐに悟った。


「どちらへ?」

「先ほど、エマから声がかかったのです。シリ様の元へ」


こんな切迫した状況でも、マナトの声は落ち着いている。

その背が去っていくのを見送りながら、ユウの胸に争いの気配がじわじわと迫ってきた。


「急ぎましょう」

ユウはシュリに声をかける。


「・・・これから、ゴロク様の執務室へ。ウイとレイを連れて行く」


足取りを速めるユウの横顔は、さきほどまでの澄んだ瞳とは打って変わり、陰りを帯びていた。



「ゴロク様の執務室に行くのは・・・初めてだわ」

ウイが不安そうに小声でつぶやいた。


その声は、執務室に続く廊下の天井に反響した。


「私もないわ」

ユウが静かに応じる。


その声は揺らいでいなかった。


レイは黙々と歩を進める。


ちらりと姉の横顔を仰ぎ見れば、ユウの表情は落ち着いていた。


――母との面会で、何を話したのだろうか。


ユウも、そして少し後ろを歩くシュリも、静かな佇まいを崩さない。


観察眼の鋭いレイでさえ、その後ろを歩く乳母たちの沈んだ顔までは見ていなかった。


ユウは、執務室の扉を戸惑うように叩いた。


「入れ」

重々しい声に従い、三姉妹はゆっくりと足を踏み入れる。


シリとハンスが机に向かっていた。


書類を手にしていたので、打ち合わせの最中だったのだろう。


もうすぐ、日が暮れる。


薄暗い室内は、ろうそくの明かりが揺らめいていた。


「座って」母の微笑みを見た瞬間、ウイは泣きそうになったが、必死に堪えて椅子に腰を下ろした。


乳母とシュリは後方に控えている。


エマとヨシノは、お互いを見つめ、静かに頷きあった。


やがてゴロクが口を開いた。


「これより、姫様たちには辛き旅となろう」

掠れた低い声に、三人は小さく頷く。


「ユウ様――シリ様によく似ておられる。妹たちを守り、立派な姫となられよ」

ユウは唇を噛み、強く頷いた。


「ウイ様は、いつも笑顔を忘れぬ子じゃ。乱世の中でも、その優しさを失うでないぞ」


「ゴロク様・・・」

ウイは涙を堪えきれず、声を震わせながら口を押さえる。


「レイ様はまだ幼いが、聡明さは誰にも劣らぬ。学びを怠らず、家を支える器となれ」


レイは静かに頷く。


三人は、言葉にならず、かすれた息が漏れる。


「・・・わしはここまでだ。この歳で三人の娘を持てた。幸せだった」

ゴロクは拳を膝に押し当て、目を伏せた。


「ゴロク様・・・」

ウイの声は震えていた。


「どうした」

顔を上げると、群青の瞳に涙を宿したウイが必死に訴える。


「あの・・・キヨに頼んで、命だけは助けてもらえませんか。死ななくても・・・いいのでは」


ゴロクはふっと笑った。


「わしは領主として、キヨと対立した責任を取らねばならぬ」


「それは・・・」

ウイは理解できないように首を振る。


「敗戦の責任は、自らの命で償う。それが領主なのよ」

シリが静かに口を添えた。


「そんな・・・」

ウイは涙をため、首を振り続ける。


「それが領主なのです」

シリはきっぱりと告げた。


「わしが生き延びれば、再び争いの火種となる。ここで終わらねばならぬ」

揺るがぬ表情に、ウイは言葉を閉ざすしかなかった。


「・・・お世話になりました」

嗚咽を押し殺す気配が室内に広がった。


「ゴロク様」

レイは懸命に笑みを作る。


「私は、この城が好きでした。ここで過ごした日々を忘れません」


「そうか・・・これで心置きなくあの世へ行ける」

ゴロクが髭面を崩し、嬉しそうに笑った。


「はい」

レイは強く頷いた。


自然と皆の視線がユウへ集まる。


ユウは、俯いたまま顔を上げようとしない。


ーー妹たちは別れを告げた。


長女として、どうするのか。


シリも侍女たちも、不安げにユウの背中を見守った。



突然、ユウが椅子を蹴るように立ち上がった。


毅然とした瞳に、シリも思わず息を呑む。


ゴロクの前に立ったユウは、睨むようにゴロクを見つめた。


「ユウ様・・・どうされましたか」

ゴロクは思わず声を震わせた。


厳しい戦をいくつも越えてきた男の目が、今はただ戸惑いに揺れている。


ユウはまっすぐにその目を見据え、かすかに震える声を絞り出した。


「・・・ありがとう」


驚いたように口を開けたゴロクに、ユウは途切れ途切れに言葉を吐き出す。


「新しいドレス・・・嬉しかった。私のために・・・婚約者も選んでくださって・・・感謝しています・・・」


ユウは大きく息を吸った。


ーーずっと言えなかった。


今、言わないと一生後悔する。


目の前の、この人の命は揺らいでいるのだ。


勇気を振り絞るように両手を握りしめ、一歩飛び出して、老いたゴロクの身体に抱きついた。


「義父上・・・ありがとうございました!」


泣き叫ぶ声に、シリは思わず口を開き、乳母たちは顔を見合わせた。


レイも立ち上がり、ウイは泣きながら駆け寄った。


二人も、ゴロクにしがみつく。


「私もです!! 義父上!」

ウイは声を出して叫んだ。


「義父上・・・」

レイも顔を埋める。


ゴロクは呆然としながらシリを見つめた。


「・・・わしは」

震える手でユウの髪を撫で、ウイの瞳を見つめ、レイの背をさする。


「今まで生きた中で・・・今が一番幸せだ」


執務室は三姉妹の泣き声に包まれ、ゴロクの視界も揺れ、三姉妹の姿が霞んだ。


シリは、笑おうとしたものの、視界がにじみ、ユウたちの顔がぼやけた。


――共に過ごしたのは、わずか一年足らず。


成長した娘たちは、若くして亡くなった父の幻影を抱き続け、

老いた義父を父と認めることはなかった。


それでも今、不器用ながら愛情を示す彼の姿に、ようやく“家族”になれたと感じた。


「幸せを・・・願っている」

その声は、本当の父のように温かかった。


そして、ゴロクは視線をシュリに向けた。


「シュリ、姫様たちを・・・ユウ様をお守りせよ」


「ゴロク様・・・」

目を見開くシュリへ、ゴロクは声を張った。


「しっかりしろ。シュリを鍛えたのは、この時のためだ」


乳母子としての意味を思い出したシュリは、唇を噛みしめる。


「・・・はい。必ずお守りします」

深く頭を下げた。


「それで良い」


満足げに頷くゴロク。


静かな間を経て、彼は最後に深く頭を垂れ、声を絞り出した。


「さらばじゃ。・・・わしの分まで、強く生きよ」


風もないのに、ろうそくの火が揺れた。


ーー揺れる火が、彼の最後の姿を照らしていた。


シリは、泣き崩れる娘たちを、静かに抱き寄せた。


何度も涙を流しながら書いたお話でした。

再婚した当初はツンとすましていたユウが、別れの時に初めて素直になった瞬間――ゴロクの不器用な想いは、決して無駄ではなかったのだと思います。


物語はいよいよ大詰めに差し掛かります。

・・・気がつけばここまでで五十三万文字。

長い長い物語に最後までお付き合いくださる皆様に、心から感謝を申し上げます。


次回ーー明日の9時20分


キヨは笑いながら「妾の屋敷」を夢想し、

サムは沈黙に沈み、

ノアは槍を携えて夜空を見上げる。


誰もが、シリと姫たちの運命を思いながら。


――やがて月が昇り、開戦の刻が迫る。

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