さらばーーわしの分まで強く生きよ
シリの部屋から出てきたユウの顔を見て、シュリは思わず頬を緩めた。
これまでに見たことのないほど、澄んだ瞳をしている。
――どんな話をしたのかは知らない。けれど、きっと実りのあるものだったに違いない。
シュリはそう確信した。
二人は肩を並べて、妹たちが待つ客間へと歩き出す。
数歩進んだところで、重臣マナトと出くわした。
「ユウ様」
深々と頭を下げる姿に、ユウも立ち止まる。
「マナト・・・体調は」
「問題ありません」
そう答えたマナトの目の下には、疲労の影が濃い。
――眠る暇などあるはずもない。
ユウはすぐに悟った。
「どちらへ?」
「先ほど、エマから声がかかったのです。シリ様の元へ」
こんな切迫した状況でも、マナトの声は落ち着いている。
その背が去っていくのを見送りながら、ユウの胸に争いの気配がじわじわと迫ってきた。
「急ぎましょう」
ユウはシュリに声をかける。
「・・・これから、ゴロク様の執務室へ。ウイとレイを連れて行く」
足取りを速めるユウの横顔は、さきほどまでの澄んだ瞳とは打って変わり、陰りを帯びていた。
◇
「ゴロク様の執務室に行くのは・・・初めてだわ」
ウイが不安そうに小声でつぶやいた。
その声は、執務室に続く廊下の天井に反響した。
「私もないわ」
ユウが静かに応じる。
その声は揺らいでいなかった。
レイは黙々と歩を進める。
ちらりと姉の横顔を仰ぎ見れば、ユウの表情は落ち着いていた。
――母との面会で、何を話したのだろうか。
ユウも、そして少し後ろを歩くシュリも、静かな佇まいを崩さない。
観察眼の鋭いレイでさえ、その後ろを歩く乳母たちの沈んだ顔までは見ていなかった。
ユウは、執務室の扉を戸惑うように叩いた。
「入れ」
重々しい声に従い、三姉妹はゆっくりと足を踏み入れる。
シリとハンスが机に向かっていた。
書類を手にしていたので、打ち合わせの最中だったのだろう。
もうすぐ、日が暮れる。
薄暗い室内は、ろうそくの明かりが揺らめいていた。
「座って」母の微笑みを見た瞬間、ウイは泣きそうになったが、必死に堪えて椅子に腰を下ろした。
乳母とシュリは後方に控えている。
エマとヨシノは、お互いを見つめ、静かに頷きあった。
やがてゴロクが口を開いた。
「これより、姫様たちには辛き旅となろう」
掠れた低い声に、三人は小さく頷く。
「ユウ様――シリ様によく似ておられる。妹たちを守り、立派な姫となられよ」
ユウは唇を噛み、強く頷いた。
「ウイ様は、いつも笑顔を忘れぬ子じゃ。乱世の中でも、その優しさを失うでないぞ」
「ゴロク様・・・」
ウイは涙を堪えきれず、声を震わせながら口を押さえる。
「レイ様はまだ幼いが、聡明さは誰にも劣らぬ。学びを怠らず、家を支える器となれ」
レイは静かに頷く。
三人は、言葉にならず、かすれた息が漏れる。
「・・・わしはここまでだ。この歳で三人の娘を持てた。幸せだった」
ゴロクは拳を膝に押し当て、目を伏せた。
「ゴロク様・・・」
ウイの声は震えていた。
「どうした」
顔を上げると、群青の瞳に涙を宿したウイが必死に訴える。
「あの・・・キヨに頼んで、命だけは助けてもらえませんか。死ななくても・・・いいのでは」
ゴロクはふっと笑った。
「わしは領主として、キヨと対立した責任を取らねばならぬ」
「それは・・・」
ウイは理解できないように首を振る。
「敗戦の責任は、自らの命で償う。それが領主なのよ」
シリが静かに口を添えた。
「そんな・・・」
ウイは涙をため、首を振り続ける。
「それが領主なのです」
シリはきっぱりと告げた。
「わしが生き延びれば、再び争いの火種となる。ここで終わらねばならぬ」
揺るがぬ表情に、ウイは言葉を閉ざすしかなかった。
「・・・お世話になりました」
嗚咽を押し殺す気配が室内に広がった。
「ゴロク様」
レイは懸命に笑みを作る。
「私は、この城が好きでした。ここで過ごした日々を忘れません」
「そうか・・・これで心置きなくあの世へ行ける」
ゴロクが髭面を崩し、嬉しそうに笑った。
「はい」
レイは強く頷いた。
自然と皆の視線がユウへ集まる。
ユウは、俯いたまま顔を上げようとしない。
ーー妹たちは別れを告げた。
長女として、どうするのか。
シリも侍女たちも、不安げにユウの背中を見守った。
突然、ユウが椅子を蹴るように立ち上がった。
毅然とした瞳に、シリも思わず息を呑む。
ゴロクの前に立ったユウは、睨むようにゴロクを見つめた。
「ユウ様・・・どうされましたか」
ゴロクは思わず声を震わせた。
厳しい戦をいくつも越えてきた男の目が、今はただ戸惑いに揺れている。
ユウはまっすぐにその目を見据え、かすかに震える声を絞り出した。
「・・・ありがとう」
驚いたように口を開けたゴロクに、ユウは途切れ途切れに言葉を吐き出す。
「新しいドレス・・・嬉しかった。私のために・・・婚約者も選んでくださって・・・感謝しています・・・」
ユウは大きく息を吸った。
ーーずっと言えなかった。
今、言わないと一生後悔する。
目の前の、この人の命は揺らいでいるのだ。
勇気を振り絞るように両手を握りしめ、一歩飛び出して、老いたゴロクの身体に抱きついた。
「義父上・・・ありがとうございました!」
泣き叫ぶ声に、シリは思わず口を開き、乳母たちは顔を見合わせた。
レイも立ち上がり、ウイは泣きながら駆け寄った。
二人も、ゴロクにしがみつく。
「私もです!! 義父上!」
ウイは声を出して叫んだ。
「義父上・・・」
レイも顔を埋める。
ゴロクは呆然としながらシリを見つめた。
「・・・わしは」
震える手でユウの髪を撫で、ウイの瞳を見つめ、レイの背をさする。
「今まで生きた中で・・・今が一番幸せだ」
執務室は三姉妹の泣き声に包まれ、ゴロクの視界も揺れ、三姉妹の姿が霞んだ。
シリは、笑おうとしたものの、視界がにじみ、ユウたちの顔がぼやけた。
――共に過ごしたのは、わずか一年足らず。
成長した娘たちは、若くして亡くなった父の幻影を抱き続け、
老いた義父を父と認めることはなかった。
それでも今、不器用ながら愛情を示す彼の姿に、ようやく“家族”になれたと感じた。
「幸せを・・・願っている」
その声は、本当の父のように温かかった。
そして、ゴロクは視線をシュリに向けた。
「シュリ、姫様たちを・・・ユウ様をお守りせよ」
「ゴロク様・・・」
目を見開くシュリへ、ゴロクは声を張った。
「しっかりしろ。シュリを鍛えたのは、この時のためだ」
乳母子としての意味を思い出したシュリは、唇を噛みしめる。
「・・・はい。必ずお守りします」
深く頭を下げた。
「それで良い」
満足げに頷くゴロク。
静かな間を経て、彼は最後に深く頭を垂れ、声を絞り出した。
「さらばじゃ。・・・わしの分まで、強く生きよ」
風もないのに、ろうそくの火が揺れた。
ーー揺れる火が、彼の最後の姿を照らしていた。
シリは、泣き崩れる娘たちを、静かに抱き寄せた。
何度も涙を流しながら書いたお話でした。
再婚した当初はツンとすましていたユウが、別れの時に初めて素直になった瞬間――ゴロクの不器用な想いは、決して無駄ではなかったのだと思います。
物語はいよいよ大詰めに差し掛かります。
・・・気がつけばここまでで五十三万文字。
長い長い物語に最後までお付き合いくださる皆様に、心から感謝を申し上げます。
次回ーー明日の9時20分
キヨは笑いながら「妾の屋敷」を夢想し、
サムは沈黙に沈み、
ノアは槍を携えて夜空を見上げる。
誰もが、シリと姫たちの運命を思いながら。
――やがて月が昇り、開戦の刻が迫る。




