秘密を託して ー交わらぬ未来へー
シリの部屋の扉は閉められた。
廊下に出たシュリとエマは、しばらく黙ったまま、立ちすくんでいた。
城の外では兵たちの声が聞こえるが、廊下は静まり返っていた。
「いつ頃・・・から、ユウ様は知っていたのですか」
エマの顔はこわばっている。
「・・・一年ほど前から・・・隠し小部屋で・・・二人で聞きました」
シュリが話した後、エマは瞳を潤ませながらシュリの顔をじっと見つめた。
「・・・秘密を抱えるのは・・・大人でも苦しいことです」
言葉は静かだったが、そこに宿る重みは深い。
エマは小さく息をつき、両手を胸に当てた。
「その間、ユウ様を支えたあなたは立派な乳母子です」
シュリは返す言葉を見つけられず、ただうなずいた。
「これから、ユウ様の歩む道のりは厳しい」
エマは窓の外を見てつぶやく。
預言者のような言葉の響きに、シュリは顔を上げる。
「この後に、あなたの母親のヨシノに、この件について伝えます」
「はい」
シュリは真剣な顔で頷く。
「ヨシノとシュリで・・・ユウ様を支えるのですよ」
エマは静かに話した。
その言葉の響きはーーまるで最後の別れのよう。
疑問に思い、シュリが口を開きかけた瞬間、エマは背を向け歩き始めた。
残された廊下に、しばし沈黙が落ちる。
シュリは拳を固く握りしめた。
ーー支える。必ず。
心に刻んだその決意が、胸の奥で熱く燃え続けていた。
エマは廊下の石畳を黙々と歩いていた。
足を止め、窓の外を覗くと、眼下に広がるのは敵兵の影。
城門前には灯火の準備が進められていた。
ーーあれがすべて灯れば、夜でも昼のような明るさになる。
そして明け方には・・・自分の命は尽きるだろう。
ふと、遠い昔を思い出した。
シリの乳母になったばかりの頃、自分にも夫と、ひとりの男の子がいた。
シリはよく泣く赤ん坊で、必死に世話をしながらも、この子には何か特別なものがあると感じていた。
ーー立派な妃に育てねば。そう心に決めた。
三年ほど経った頃、夫は言った。
「乳母をやめ、家庭に戻ってくれ」
悩みに悩んだ末、エマは夫と子を捨て、シリのそばに仕える道を選んだ。
ーー後悔はしていない。
けれどシュリを見るたびに、あの子の面影を探してしまう。
笑ったときの頬のえくぼも、ユウを見つめている時の伏し目がちの横顔もーー。
リネン室の前で、偶然、ヨシノと出会った。
「エマ!」
不安そうなヨシノの顔は、エマとの再会でホッとした表情になった。
「ヨシノ、少しお話があります」
エマは決意を胸に、視線をリネン室に動かした。
大量の布と糸屑が舞う、埃っぽいリネン室。
そこでエマは、長いあいだ胸にしまってきた秘密をヨシノに打ち明けた。
エマの言葉を聞いた瞬間、ヨシノは椅子に沈み込み、口に手を当てた。
膝ががくがくと震え、立ち上がろうとしても力が入らない。
――まさか。そんなことが。
頭の中に、レーク城での記憶が鮮やかによみがえる。
「シリに子ができた」
あの時、領主グユウ様が見せた抑えきれない笑顔。
その表情を、今も忘れられない。
「・・・グユウ様は。父親がゼンシ様ということを・・・ご存知で・・・」
ヨシノの声は震えていた。
「はい。そうです」
エマは淡々と答える。
ヨシノは震える両手を押さえるように膝に強く押しつけた。
「・・・幼い頃から・・・ユウ様は特別な子だと思っていました」
その特別は、血筋から得たもの。
心のどこかで納得をしてしまう。
エマは静かに頷いた。
「そういう姫のもとに仕えるということは、数えきれぬ試練を伴うものです」
その言葉には、長い年月を経た実感がこもっていた。
「ヨシノ・・・この秘密は、シュリとユウ様、そしてあなたが抱えて生きていくのです」
「はい・・・。でも、エマも・・・私を支えてくれますか?」
ヨシノはすがるように顔を上げた。
エマは目を伏せ、弱々しく首を振った。
「・・・それはできません。私には、もう時が残されていないのです」
漂う糸屑が、ひとひら、ヨシノの膝に落ちた。
「どういう・・・事ですか?」
ヨシノの胸に、黒い影のような不安が広がっていく。
「・・・私も、シリ様とこの城に残ります」
ヨシノの喉がごくりと鳴った。
息を吸う音さえ重たく響いた。
「つまり・・・共に死ぬ覚悟です」
エマは淡々と告げた。
「そんな!」
ヨシノは思わず椅子を蹴って立ち上がる。
「残された姫様たちはどうなるのですか!」
「この件は、内密にお願いします。もし知られれば、姫様たちは城を出ないでしょう」
エマは声を潜める。
「シリ様だけでなく・・・エマまでいなくなるなんて・・・」
ヨシノの声は掠れ、瞳に涙がにじむ。
エマの存在は、子どもたちにとって大きかった。
ーー母のように慕われる人。
その彼女が、シリと共に死ぬつもりでいる。
残された子どもたちの気持ちを思うと、ヨシノは震えた。
「ヨシノ、しっかりなさい」
エマはその両肩を掴み、まっすぐに見つめた。
「あなたは立派な乳母です。ユウ様を支えて」
「・・・エマ、私にはできません」
ヨシノは首を振り、嗚咽を堪えた。
声はかすれ、子どものように震えていた。
エマに支えてもらえなければ、自分は立てない。そう思った。
なのに、その支えを断たれてしまった。
涙が頬を伝う。
――私はひとりで、この重さを抱えるの?
怖い。
けれど、逃げられない。
ヨシノの脳裏に浮かんだのは、泣き出しそうに唇を噛みながらも、
必死に背筋を伸ばして歩くユウの横顔だった。
あの横顔は、まだ幼さを残したままの少女のもの。
けれど、その目だけは必死に母を真似ていた。
ーー守らねば。この子を支えるのは私しかいなくなる。
「できるわ。あなた一人で背負うのではありません」
エマは力強く言った。
「シュリと共に・・・ユウ様を支えて」
「シュリ・・・と」
「そう。シュリと」
「けれど、あの子は・・・乳母子以上の気持ちをユウ様に抱いている」
ヨシノの声は弱々しい。
エマは静かに頷いた。
「そして・・・ユウ様も」
そこから先をヨシノは口にできなかった。
「二人の絆は強い。叶わぬ想いかもしれませんが・・・ユウ様にとって、きっと支えになるはず」
エマの声は苦しげに途切れがちだった。
「ヨシノ、ユウ様を頼みます」
そう言って、エマは深々と頭を下げた。
「・・・わかりました」
ヨシノは深く息を吸った。
「この秘密、私とシュリで抱えて生きていきます。ユウ様のために」
膝はまだ震えていた。
けれど、震えたままでもいい。
逃げずに仕えることこそ、自分の務めなのだ。
「ヨシノ・・・」
エマは、震える手でその手を握り返す。
「・・・支えます。エマのように上手にはできないけれど・・・ユウ様を支えていきます」
「それならば・・・私は思い残すことがありません」
エマはやわらかく微笑んだ。
その表情を見て、ヨシノの胸を不意に過ぎった。
――いつか自分も、この人のような顔をして死ぬのだろうか。
涙を拭った耳元に、エマの声が囁く。
「シリ様が城に残ることを・・・モニカとサキに伝えて。くれぐれも内密に」
モニカとサキ。ウイとレイの乳母である。
「はい・・・三人で、姫様方を支えてまいります」
約束は交わされた。
長い沈黙のあと、二人はようやく立ち上がった。
同じ扉をくぐりながら、進む道は二度と交わらない。
並んで出た扉の向こうで、二人はもう違う運命へと分かれていった。
リネン室を出ると、ヨシノは階段へ、エマは暗い廊下の奥へと足を運ぶ。
残された部屋には、舞い散った布と糸屑だけが静かに揺れていた。
次回ーー本日の20時20分
「義父上……」
三姉妹が泣きながら抱きつく。
ゴロクは震える手で彼女たちを撫でながら、最後に言った。
「さらばじゃ。……わしの分まで、強く生きよ」




