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これが臆病者の自分が選んだ道

◇ キヨの陣


その日の午後、シズル領は冷たい風が吹いていた。

風前の灯と化したノルド城の城壁が霞んで見える。


キヨは地図の上に手を置き、エルと攻め口の最終確認をしていた。


そのすぐ後ろで、イーライが静かに座している。


そこへ、ノアが無言で入ってくる。


「何じゃ、ノア。珍しいのう、そんな顔をして」

キヨは視線を地図から上げた。


ノアは膝をつき、深く頭を下げた。


「頼みがある。・・・ゴロク様のお命、どうかお助けいただきたい」


エルが驚いたように口を開ける。


キヨの目がわずかに細くなる。


「ほう・・・そりゃまた、情け深い話よのう」


キヨはふっと目尻を下げ、懐かしい友を見るように微笑んだ。


その声は、昔、聞いたあの穏やかな調子だった。


ノアは、胸の奥にかすかな希望が灯るのを感じた。


「頼む。かつては同じ主に仕えていたじゃないか。

領主として、見事に戦った、せめて命だけは・・・」


ほんの一拍置いた後、キヨの顔から笑みはすっと消えた。


声は低く、氷のように硬くなる。


「だが・・・それは叶わぬことだ」


ノアの背筋に冷たいものが走り、灯った希望は一瞬で凍りついた。


「ノア、お前の頼みとあらば聞きたいところだが・・・ゴロクが降りない限り、このキヨも面子が立たんのじゃ」


「・・・承知しております。けれど・・・」

ノアは言葉を飲み込み、深く息を吐いた。


キヨはゆっくりと立ち上がり、ノアの肩に手を置いた。


「もしゴロクが生き延びる道を選ぶなら、その時はわしも考えよう。

 だが、あの男は・・・義を貫くお方よ」


ノアは拳を握り、視線を伏せた。


キヨの声は穏やかだったが、その奥に冷徹な決意が見え隠れしていた。


それでもノアは膝をつき、深く頭を下げた。


「キヨ・・・頼む。ゴロク様のお命、どうか・・・お助けいただきたい」


「兄者・・・」

エルが動揺しながらも、視線をキヨに向ける。


昔からの友人であるノアが、こんなに頭を下げているのだ。


イーライはペンを持ったまま手は宙に浮いていた。


キヨはしばし無言でノアを見つめた。


陣幕の内は、風の音さえも遠ざかったように静まり返る。


やがて、低く押し殺した声が落ちた。


「・・・ノア、戦は情けで動くものではない」


ノアの肩がピクっと震えた。


「そのような気持ちでは困る」

キヨの目が細く、鋭く光る。


「ノアが先陣を務め、ゴロクの首を討ち取れ」


刃のような言葉が空気を裂いた。



ノアの眉がわずかに動き――ゴロクとの最後の別れの光景がよみがえる。


北の砦の館。

閉ざされた窓からも、外気の鋭い冷たさがじわじわと染み込んでくる。


スープとパンを食べたゴロクは、淡々と話した。


『次に会うときは、わしの首を取るが良い』


首に手を当て、微笑すら浮かべて――。


『そうすれば、キヨはお前を重く扱うはずだ』



ーーゴロク様はわかっていたのだ。


キヨがこういう指示を出すことを。


そして、自分がどうなるかも。


ノアの瞳から、堪えていた涙がこぼれ落ちた。



そんなノアに、キヨは飄々と話す。


「そうだ。かつての主君であろうが、義兄弟であろうが関わりない。

ゴロクの首こそ、わしの国王への道を固める証になる」


ノアは頭を下げたまま動けない。


キヨは鋭く言い放つ。


「ためらえば他の者が討つ。その時は、お前の立場も命もないと思え」


陣幕の外から、春の冷たい風が吹き込んだ。


ノアの背筋はその冷気よりも、キヨの言葉の冷たさに震えていた。


溢れた涙を袖口で乱暴に拭い、深く息を吸い込む。


冷たい空気が肺に刺さり、背筋を伸ばす。


やがてノアは、ゆっくりと顔を上げた。


ーーやるしかないのだ。


これが臆病者の自分が選んだ道なのだ。


「それならば・・・喜んで先陣に立ちます」


その声は最初は震えていた。


次第に熱を帯びたように強い口調になる。


「他人に討たれるくらいなら・・・私がこの目で、ゴロク様の最期を見届ける」


ノアの瞳に、強い光が宿った。


エルは口を開け、イーライはペンをおろし、座を正した。


しかし、キヨは薄く笑った。


「好きにしろ」





◇ 同じ頃 ノルド城 執務室


ゴロクがポツリと呟いた。


「・・・良い若者だった」


「イーライと言いましたね」

シリが頷く。


「あの若さで、あの冷静さと佇まい。只者ではないわ」

シリは窓の外を見つめていた。


もうすぐ夕方。


淡い陽の光が、この世で見る最後の太陽。


死が間近に迫ると、今まで当たり前に見ていた景色が美しく見える。


「あの若者は・・・シリ様に目を奪われていたようです」

ゴロクがふっと口元を緩めた。


「・・・相変わらず、キヨは上手いわ」

シリは、お手上げと言わんばかりに肩をすくめる。


ゴロクはじっとシリを見つめた。


「元・ワスト領の家臣を使者に送り込む・・・私の気持ちを揺るがすための策。小賢しく、有能」

その声には、悔しさとわずかな賞賛が滲む。


「・・・何も話さぬつもりだったのに。サムの顔を見たら、つい話してしまった」

シリはため息をついた。


「あの者は・・・気づいていたでしょう。シリ様の覚悟を」


「ええ。サムは聡い上に、嘘を吐けぬ男です」


シリはわずかに微笑んだ。


「私に何度も確認をしていたでしょう。覚悟を、確かめるように」


「・・・ならば、キヨには話すまいな」

ゴロクが静かにうなずく。


ゴロクは、彼女と元レーク城の家臣との間に深い信頼があることがわかった。


ーーその家臣がいるのなら・・・


ゴロクは思い切って口を開いた。


「シリ様・・・城を出て、生きてはくださらぬか?」

お願いするような声音だった。


シリはじっとゴロクを見返す。


「時代が変わりました。もう・・・私のような領主は、これからの世にはいなくなるでしょう。

キヨが築く新しい世を、姫様たちと――」


「私はここで、あなたと運命を共にします」

シリの声は澄み切っていた。


ゴロクはしばしシリを見つめ、言葉を失う。


「・・・シリ様」


「私のような妃も、この世にいなくなります」

静かに言い、彼の手を握る。


「シリ様のような・・・妃は・・・どこにもおりません」

ゴロクは必死に首を振る。


「女は・・・自分が思うように生きることはできません」

シリはゆっくりとゴロクの瞳を見つめた。


「死ぬ時くらいは、自分の意思を貫きたいの。ゴロク、この城が私の死場所よ」


彼女の脳裏には、この城で過ごした一年足らずの日々が鮮やかによみがえる。


夏の終わりに嫁ぎ、秋の実りと冬の雪を経て、春に別れを迎える結婚。


その間、娘の恋愛を見守り、三人の妾と絆を作り、争いの準備に奮闘した。


すべてが、この石壁と共にあった。


ゴロクは震える手でシリを抱きしめた。


「私は・・・幸せ者です」


春の夕陽が、二人の影を静かに重ねていた。


次回ーー本日の20時20分


静まり返った部屋に、ユウの問いが落ちた。


争いの足音が迫る中、ついに口にされた禁断の真実。

シリの胸に去来するのは、母としての愛か、それとも姫としての責か――。

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