止めた・・・でも、もう届かない
「それでは・・・妃様と姫様方は・・・」
イーライの声は、わずかに震えていた。
その問いかけにも、シリは微動だにせず、ただ謁見の間の花瓶を静かに見つめている。
「女や子供に責はない。この城が落ちる前に、キヨに保護を頼みたい」
ゴロクがゆっくりと口を開き、懐から一通の文を取り出す。
「その件については、この書状に記してある」
差し出された文を、イーライは両手で受け取った。
「もちろんでございます」
その声音に、わずかな熱が宿る。
妃と姫を守ること――それが彼に課せられた、最も重い使命なのだ。
「我が主、キヨが申しておりました。シリ様と姫様方の命を、必ず救いたいと」
イーライの黒い瞳が、まっすぐにシリを捉える。
だがその視線を受けても、彼女の表情はひとひらも揺れなかった。
ーー十年前、あの時と同じ。
覚悟を決めたシリの横顔を見つめながら、サムの背にじっとりと汗がにじんだ。
震える拳を落ち着けるように、何度も手のひらを開く。
――あの時も、一点を見つめていた。
キヨとエルが使者としてレーク城を訪れた時、傍らで同伴していた自分は、同じ眼差しを見た。
あの頃のシリ様は、グユウ様を見やるとき、恋い焦がれた熱と揺れを瞳に宿していた。
その眼差しを見るたびに、サムは確信したものだ。
――これほど好いているのだから、離れたくはないのだろう。
グユウ様と共に逝くことを選んだのは、その想いゆえだと。
だが今は違う。
わずかな時間ながら、ゴロク様と視線を交わすその瞳には、恋情の色はない。
そこにあるのは、信頼できる臣下に向ける穏やかな光だけ。
――それなのに、なぜ・・・命を終わらせる覚悟を決めたのか。
答えを見いだせぬまま、サムの胸中は揺れ続けた。
その間にも、イーライとゴロク様は救出の段取りを淡々と確認している。
救出は今夜、夜半に行われることとなった。
「イーライ、ご苦労だった」
ゴロクの声には、若い使者への労りがにじんでいた。
シリは銅像のように、ただ静かに座している。
面会は終わった――そう思わせる空気の中、サムは一歩前へ踏み出した。
短く息を吐き、声にわずかな重みを忍ばせる。
「失礼します」
その声に、シリの顔がわずかに動いた。
謁見の間の奥、薄暗い片隅に――ワスト領からの使者が、もう一人。
「前へ・・・失礼します」
サムは深く頭を下げ、二人の前へと歩み出た。
「シリ様、お久しゅうございます」
一礼して顔を上げると、
「サム!」
シリの瞳にはっきりと驚きが走った。
ゴロクの表情にも、懐かしさと戸惑いが交じる。
「・・・そなたの顔、見覚えがある」
「はっ。我が主、キヨの臣下、サムと申します。シリ様とは・・・面識がございます」
「そうじゃった・・・グユウ殿との婚礼の折、そなたは付き添っていたな」
ゴロクは記憶を手繰るように言った。
「仰せのとおり。私は、かつてグユウ様にお仕えしておりました」
サムはもう一度一礼し、シリを見つめた。
「サム・・・」
シリの瞳が、懐かしさにわずかに揺れる。
――こうしてお目にかかるのは、十年ぶり。
敵同士でなければ・・・話したいことが山ほどあった。
今はキヨに仕えているが、心は今もグユウ様とシリ様の側にあることを。
あの頃の仲間も、同じ思いでいることを。
・・・だが、それを口にすることはできない。
「シリ様、救出の件ですが」
サムはその瞳をまっすぐ見据えた。
「その時間で・・・よろしいでしょうか」
隣のイーライが、訝しむような視線を送ってくる。
――無理もない。
先ほど、その時間にすると決めたばかりだ。
何を今さら、と。
だが、この問いには別の意味がある。
ーー聡いシリ様なら、きっと気づいてくださる。
サムはそう信じていた。
サムの問いに、シリは表情を変えなかった。
だが、ほんの一瞬、まぶたがかすかに震える。
――やはり、届いた。
「・・・ええ。その時間でお願いしたいの」
声はわずかに揺れていた。
サムは一拍置き、低く問いを重ねる。
「しかし・・・救出の刻は、早すぎるのではございませんか」
今度は、視線をゴロクに移す。
その瞬間、彼を包む空気がわずかに揺らいだ。
「・・・早すぎるということはない」
ゴロクの声が静かに落ちる。
「むしろ・・・ちょうど良い」
シリがサムに目を戻す。
その奥に宿るのは、揺らぎのない覚悟。
「・・・そうですか」
サムもまた、視線に想いを込める。
――生きてください。
死ぬなんて、考えないでください。
一瞬、二人の間だけの静寂が生まれる。
そこには言葉ではなく、互いの胸奥だけが知る対話があった。
その願いが伝わったのか、シリの声がかすかに震えた。
「その時間で・・・良いのです。私が望んだことです」
サムは、思わず一歩、前ににじり寄った。
そして、辛そうにシリを見つめた。
出陣前日、カツイがふと漏らした言葉が胸をよぎる。
『シリ様は、命を惜しむような方じゃない。
その眼差しは、時に男よりも冷たく、まっすぐで。
あの方は、きっと――その道を、選んでしまう気がしてならないんだ』
――どうして。
サムの問いかけるような視線に、シリはかすかにうなずいた。
「シリ様・・・レーク城にいた者は皆、あなた様にお会いしたいと願っております。
私だけではなく、ロイも、チャーリーも・・・カツイは、特に・・・!」
サムの声に自然と力がこもる。
懐かしい名前に、シリは目を潤ませ、ふっと微笑んだ。
「私も・・・会いたいわ」
その響きは飾りのない、まっすぐな本心だった。
「はい」
サムはまっすぐ見つめ返し、シリは静かに頷いた。
短い沈黙ののち、シリが場を和らげるように口を開く。
「それでは・・・イーライ、夜半の救出、よろしくお願いします」
「承知しました」
イーライは深く頭を下げる。
「サム、また後ほど」
シリは微笑を浮かべたまま、ふと視線を深く落とす。
その一瞬。
瞳の奥に鋭い光が走る。
サムの胸に、冷たい針が触れたような感覚が広がった。
『・・・このことは、キヨ様に知られてはならない』
声は出さない。
ただ、その目が告げていた。
サムはわずかに息をのみ、静かに頷いた。
「・・・はい」
城門を出ると、馬上のイーライは急に肩の力が抜いたように見えた。
「イーライ、大役で疲れただろう」
サムは労わるように声をかける。
「はい。無事に交渉を終えられてよかったです」
その声には、心からの安堵が滲んでいた。
陣に戻ったイーライは、いつものように整然とキヨへ結果を報告する。
「さすがじゃ! イーライ、よう努めた」
キヨは上機嫌で彼を称えた。
「本当に、とても初めての交渉とは思えぬほど・・・見事でした」
サムも口を添える。
「それでは、シリ様と姫様の救出を終えた後、攻撃開始という形でよろしいでしょうか」
エルがキヨに確認すると、キヨは強く頷いた。
「あぁ。明け方には決着をつける」
打ち合わせが終わると、サムは自分の陣地に戻った。
そこにはロイとチャーリーが待っていた。
「サム! シリ様にお逢いしたか?」
チャーリーが屈託のない笑顔で声をかけ、ロイも静かに頷いて話を促す。
その二人の顔を見た瞬間、サムは膝の力が抜け、地面に崩れ落ちた。
「どうした?」
ロイが慌てて駆け寄る。
いつも冷静なサムの顔は、蒼白に染まっていた。
「カツイ・・・すまない」
そこにはいない旧友に向ける、かすかなつぶやき。
その言葉に、ロイの表情が固まる。
「どうした」
チャーリーも不安げに身をかがめた。
二人がそばに寄ると、サムは押し殺すような声で告げた。
「シリ様は・・・城と共に死のうとしている」
ーー約束をした。出陣前に、カツイと。
『可能な限り、俺は・・・シリ様を守る。命を賭けてでも。
たとえ敵同士になろうとも』
その時に交わした握手の温もりが、まだ手のひらに残っている。
「止めはした・・・でも、もう止められない」
サムの声は、地面に落ちる前の雪解け水のように、かすかに震えていた。
ロイもチャーリーも、何も言えなかった。
焚き火の火花が小さく弾け、三人の間に沈黙が落ちる。
サムは俯いたまま、拳を強く握りしめた。
指の間から落ちた雫が、冷たい土に吸い込まれていった。
前作で脇を固めてくれたサムが、再びこの物語に顔を出しました。
書きながら、あの時の彼の表情や声色が蘇ってきて、気づけば涙が滲んでいました。
サムは多くを語らないけれど、その瞳の奥には深い想いがあります。
今回も彼は、自分の感情を飲み込み、ただ静かに見つめる側に立っています。
サムの心境を思いながら、涙が出た回でした。
サムは前作、7話から登場しており、最終話にも登場しています。
本作とあわせてお読みいただければ、今回の物語もより楽しんでいただけると思います。
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
次回ーー明日の9時20分
「死ぬ時くらいは、自分の意思を貫きたいの」
シリは静かに告げ、ゴロクの胸に身を寄せる。
春の夕陽に重なる影は、やがて燃え尽きる運命を背負っていた。




