表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
232/267

大人になろうとして

その人の波をかき分けるように、シュリが小走りで現れた。

湿った甲冑の匂いと、血と軟膏の混ざった空気の中を、真っすぐにユウへ向かってくる。


「ユウ様、看護室に行きましょう。マナト様が・・・お話があるとか」

低く抑えた声だったが、どこか急ぎの色が混じっていた。


「マナト・・・」

自分に何の用事があるのだろう。ユウの瞳がかすかに揺れた。


「今・・・マナト様は看護室におられます」

喧騒の中でも届くよう、シュリはそっと耳元で告げる。


「重臣たちは、その部屋にいるの?」


尋ねると、シュリは一瞬だけ言葉をためらった。


「・・・重臣の方達はホールにはいません」


その言い淀みが、ユウの胸に静かな安堵を落とす。


ーーフレッドも、リオウも、そこにいるのだろう。


ユウはホールで作業をしていたヨシノに声をかけた。


「ウイとレイを見守って」


二人とも、不安げにこちらを見ている。


「承知しました」


ヨシノが深く頭を下げるのを見届け、ユウとシュリは看護室へ向かった。



看護室までの長い廊下を、二人は黙々と歩く。


喧騒のホールとは一転、廊下は人気がなく、シンと静まり返っている。


ユウはしばらく黙って歩いていたが、ふと立ち止まり、横にいるシュリを見た。


「・・・母上は、何か考えているのだと思う」


「シリ様・・・ですか」


シュリはユウの顔をまっすぐ見つめ、答えを探すように瞬きをした。


「あのような発言・・・一体・・・」

ユウは俯く。


まだ午前中だというのに、すでに胸は鉛のように重い。


兵の帰還、看護、そして『生き延びよ』と告げたゴロク――


それに強い眼差しで頷いた母の姿が、次々と頭をよぎる。


「・・・いろんなことがありすぎて、心が・・・もたない」

声がかすれ、ユウの肩がわずかに沈んだ。


「ユウ様・・・」

シュリはそっと背に手を添える。


その目は曇り、言葉よりも先に温もりを送った。


ーー朝からの状況を思えば、繊細なユウの心が爆発するのは時間の問題のように思えた。


少し沈黙が落ちたあと、ユウは自分に言い聞かせるように口を開いた。


「・・・長女の私が、しっかりしないとね」


シュリは強く頷いた。


看護室の扉を開けると、春の淡い日差しが窓から燦々と降り注いでいた。


先ほどまで薄暗いホールと廊下を歩いていたせいで、ユウは一瞬目を閉じる。


その光は暖かいはずなのに、胸の奥ではなぜか冷たかった。


「ユウ様・・・お呼びしてすみません」

マナトが慌ててベッドから降り、ひざまずく。


「マナト・・・ベッドに戻って」

ユウは促しながら、周囲を見渡した。


ーー誰もいない。


この部屋には、彼だけ。


指先がじわりと冷える。


足の震えを抑えるため、ユウはベッド脇の簡素な椅子に腰を下ろした。


「・・・マナト、話は」


マナトは一瞬目を伏せ、それからユウをまっすぐ見つめた。

「フレッドから、伝言を賜っています」


「・・・フレッド?」

声が震え、後ろのシュリが小さく息を呑む気配が背中に伝わる。


「はい。フレッドは、ゴロク様をこの城に逃すため、ジャックと共に敵を食い止めました」


「それで・・・」

ユウは喉を鳴らす。


「先ほど伝令が告げました。その隊に所属した兵三百名は・・・全滅したそうです」


瞬間、胸の奥で何かが砕け、冷たいものが広がった。


「それでは・・・フレッドは・・・」


「志願をした時に覚悟をしていたようです。敵兵はその倍以上の数でした・・・。

別れる時、私に伝言を託したのです」

マナトは毛布を強く握りしめた。


「約束を果たせず・・・申し訳ない・・・と」


「あぁ・・・」

ユウの息が乱れる。


それは、ほんの些細な約束だった。


出陣前、フレッドは中庭でユウを後ろから抱きしめ、何度も『好き』だと告げた。


その声は耳元で低く響き、背中に温もりが伝わった。


その気持ちに応えることはできなかった。


けれど――争いが終わったら、海を見たいとユウは話した。


『一緒に行きましょう。ーーシュリも一緒に』

例の晴れやかな笑顔でフレッドは約束した。


自分とフレッド、そしてシュリを馬車に乗せて、潮の匂いのする浜辺へ行くと。


波の音を聞かせてやると、真っ直ぐな目で言っていた。


『約束ですよ』と話したら、『もちろんです』と迷いなく答えた。


今、その未来は、音もなく消えた。


胸の奥が軋み、視界が白くにじんだ。


少しの間、誰も口を開かなかった。


ユウは深く息を吸おうとしたが、肺に空気が入らないような息苦しさが残った。


座ったまま倒れそうになるユウを、シュリが手を添えた。


「ユウ様」

話す言葉は短かったけれど、ユウは額を抑えながら気丈に答えた。


「私は・・・大丈夫、大丈夫よ」


その背を支えながら、シュリは控えめに質問をした。


ーーずっと気になっていた。質問をするのなら、今しかない。


「マナト様・・・リオウは・・・」


シュリの言葉に、マナトは辛そうに目を伏せたまま口を開いた。


「リオウは・・・敵兵に背中から斬られました。その後・・・戻ってきません。安否不明です」


ユウが息を呑む。


彼も・・・出陣前に自分の想いを伝えてくれた。


その時、冷たい春の風が中庭を吹き抜けていた。


リオウはコク家の名を投げ打ってでも、ユウと共にいたいと訴えた。


「結婚してほしい」――低く真剣な声が、耳の奥に残っている。


答えられず、沈黙を通した。


父に似た真っ黒な瞳、その瞳は、ユウへの強い想いに溢れていた。


別れる前、彼は口づけを願った。


唇ではなく、額を差し出した瞬間、彼の手がそっとその額を包み、温もりが一拍だけ残った。


「それでは・・・」

それが最後に聞いた言葉だった。


ユウの肩が震えた。


シュリはそっと背中に手を添え、その震えをこれ以上大きくさせまいと支えた。


ユウの身体が小刻みに震える。


ーーこのままではユウの心が持たない。


シュリは判断した。


「ユウ様、部屋に戻りましょう」

そう切り出すと、ユウが静かに首をふる。


「マナト・・・」

顔をあげて、マナトを見つめる。


「辛いお願いだったわね。話してくれて・・・ありがとう」


その言葉は、心からのものだった。


マナトとシュリは顔を見合わせた。


その背筋の伸びた姿に、どこかシリを思わせるものがあった。


ユウは背筋を正した。


大人になろうとする自分を感じながらも、


その胸の奥は、今にも泣き出しそうな思いでいっぱいだった。



次回ーー本日の20時20分


「私は呪われた女なのかしら」

ユウは涙をこぼし、影を踏みつけるように叫んだ。


「いいえ。私はまだ生きています」

シュリの声は静かで、揺るぎなかった。


「私は――ユウ様を見届けてから死にます」


白い花びらが二人を包み、誓いはそっと風に託された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ