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その決断、間違ってなかったーー未来への預け物

ノルド城のホールでは、エマをはじめ侍女たちが一心不乱に看護を行なっていた。

シュリは黙々と汚れた水を捨て、井戸から新鮮な水を桶に運んでいる。


「シュリ! 看護室に行ってきて。水差しが空になっているはず」

エマが声を掛けた。


水差しを手に取ると、彼女はそっと近寄り、小さな声で囁く。


「・・・水差しは一つでいいのよ」


その一言に、シュリの手がわずかに震えた。


看護室――そこは重臣たちが身を休める部屋だ。


それ以外の兵はホールの床に寝かされ、手当を受けている。


扉を押し開けると、広い部屋にはマナトしかいなかった。


「失礼・・・します」

口にしながらも、思わず視線が部屋を泳ぐ。


――マナト様以外、誰もいない。・・・ということは。


手にした水差しが、すっと冷えていくようだった。


「シュリ!」

ベッドに横たわったまま、マナトが声をかける。


「マナト様・・・お怪我は」


「問題ない。大丈夫だと言ったのに、看護兵が休めと言うからな」

笑みを浮かべるマナトの顔には、隠しきれない疲労の色があった。


ゆっくりと身体を起こす。


シュリはコップに水を注ぎ、差し出す。


「あぁ・・・うまい。戦場では新鮮な水すら、滅多に口にできないからな。シュリ、ありがとう」

コップを返すと、シュリはもう一度水を注ぐ。


マナトは一口飲み、小さくため息をついた。


「シュリ・・・覚えているか? 私はお前を養子にしたかったことを」

「・・・はい」


――忘れるはずがない。


ただの乳母子の自分を、重臣の養子に迎えたいと言ってくれた人。


そんな人は他にいなかった。


「お前はそれを断った。ユウ様をお守りしたい、と」


「・・・はい」


「その決断、間違ってなかった」


「えっ・・・」


顔を上げると、マナトの灰色の瞳が優しく揺れていた。


「重臣の子なら・・・お前は近日中に、私と一緒に死ぬところだった」


「・・・マナト様」


――この人は、ゴロク様と共に・・・。


胸の奥の痛みを押し殺し、シュリは拳を握りしめた。


「重臣なら、最後まで領主に寄り添う。普通のことだ」

淡々とした声は、覚悟の響きを帯びている。


「けれど・・・お前のような未来ある若者を道連れにしないのは、救いだ。お前の選択は正しい」

マナトは、シュリの頭を軽く叩いた。


「これを・・・」

マナトが首から外した小袋を、そっとシュリの手に置いた。


その指先はかすかに温かく、マナトの館で重臣について学んだ日々を思い出した。


穏やかに笑う声、稽古場で背を押された力強さが胸によみがえる。


布はすっかり柔らかくなり、右端は擦り切れて薄く透けている。

握りしめると、長い年月の温もりがまだ宿っているようだった。


――中に入っているのは、シン様の髪。


セン家の長男、シン様の髪の毛。


ユウ様の兄であり、自分は生まれた時からシン様のそばにいた。


ゼンシの命で、キヨに串刺しにされ、命を落としたあの子供・・・。


「マナト様・・・これを、大事にしていたはずでは」

喉の奥が熱くなり、息が苦しい。


「・・・あぁ。十年間、ずっと大事にしてきた」


「それなら・・・」


「私は、まもなくシン様と同じ所に行く。シュリ・・・お前に持っていてほしい」

真剣な眼差しに、シュリの喉が詰まった。


「・・・マナト様」

堪えても涙が溢れる。


「シュリ、頼む」

弱い力で腕を伸ばし、小袋を押し付ける。


「セン家の姫様たちを・・・頼む」


「はい・・・はい・・・」

シュリは小袋を抱き締め、何度も頷いた。


「私には・・・シン様の思い出しかありませんでした。・・・これを、大事にします」

そう言って首に下げた。


首に掛けた瞬間、意外なほどの重さがのしかかった。


それは布の重みではなく、託された年月と想いの重さだった。


「それなら・・・良かった」

マナトは再び、ベッドに身を沈めた。


「シュリ」

天井を見つめたまま、マナトが静かに言う。


「ユウ様を・・・この部屋に呼んでもらえないか。

・・・今のうちに話しておきたい」


「・・・かしこまりました」

深く一礼し、シュリは看護室を後にした。


扉が静かに閉まると、外の廊下はひやりと静まり返っている。


胸の奥に、別れの予感が重く沈んでいた。


足早に石畳の廊下を進む。

遠くから、かすかなざわめきと足音が響いてくる。


角を曲がった瞬間、ホールの入り口に立つゴロクとシリの姿が目に入った。


二人がホールに入った瞬間、水を打ったよう場は静まり返る。


ゴロクは戦装束ではなく、深い藍色の上着に着替え、髪も濡れた気配を残している。


血と泥の臭いはなく、代わりに湯気の残り香がわずかに漂った。


けれど、その鋭い眼差しは戦場から戻ったばかりのものだ。


隣にいる妃のシリは、雑然としたホールの中でも息を呑むほど、美しく毅然としている。


三姉妹はそれぞれ違う色の瞳でゴロクを見つめていた。


ユウは唇を引き結び、真っ直ぐに視線を逸らさない。


ウイは少し怯えたように肩をすくめ、レイは息を呑んで立ち尽くしている。


「皆、よく頑張った。感謝する」

低い声が響くと、兵たちは一斉に頭を下げた。


視線をひととおり巡らせた後、ゴロクは短く告げた。


「・・・話がある」

ブックマークをいただき、本当にありがとうございます。

物語は残り37話、あと18日で結末を迎えます。

終盤は怒涛の展開が待っています。

最後まで見守っていただけたら嬉しいです。


次回ーー


ノルド城のホールに、ゴロクの声が響いた。

「若い者は生きろ。わしを置いて行け」


騎士の誇りを覆すその命令に、兵たちは涙をこらえながらも胸に刻む。

一方で、城門へ駆け出す若者たちを見送りながら、白髪の古参たちは歩み出た。


「わしらは残る。最後まで楯となろう」


静かな覚悟を携え、老人たちが城の奥へ進むとき――

新たな足音が、ホールに近づいていた。

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