まだ終わらんぞ
「シュリ、体調は平気?」
見張り部屋にウイの声が響く。
「お陰様で、すっかり回復しました」
シュリが軽く頭を下げた。
ノルド城の最上階――風が小窓から吹き込み、遠くの山並みまで見渡せる場所。
多くの侍女や女中が城を離れた今、その役割の多くを三人の乳母が担っている。
慌ただしい日々の中、三姉妹の警護はしばらくシュリの仕事となった。
この日は、四人は見張り部屋に集まり、兵達の帰還を待っていた。
「救護室を退室したのはいつ?」
レイが問いかける。
「ほんの先ほどです」
「・・・倒れたと聞いたけれど・・・」
レイは心配そうな顔を向けた。
「一晩よく眠って、朝ごはんはたくさん食べました。もう大丈夫です」
ユウは、そのやり取りには加わらず、窓の外をじっと眺めていた。
レイは、そんな姉の横顔をちらりと見る。
ウイが裁縫箱から刺繍糸を取り出したとき――
ユウとシュリの視線が、ふいに重なった。
頬がわずかに熱を帯びる。
その一瞬は、見張り部屋の時間を止めた。
互いの瞳が、あの日の温度を閉じ込めたまま離れられず、
ユウは慌てて窓の外に視線を逸らした。
青い瞳は揺れ、口元には、消せない記憶の残り火が灯っている。
――何かあった。
レイは二人の間に流れた気配を、確かに感じ取った。
「兵たちは・・・まだかしら」
ユウは心の揺れを押し殺すように、あえて抑揚のない声を出した。
そして、もう一度だけシュリの顔を盗み見る。
シュリもまた、視線を返してきた。
――エマの薬草湯は、確かに身体を回復させる効能はあった。
だが、記憶を消すような魔法めいた力はない。
あの日、シュリが失神したとき、ほんの少しだけ期待してしまった。
目を覚ましたら、あの瞬間を忘れていてくれるのではないか、と。
・・・だが、その期待は無意味だった。
シュリの眼差しが、すべてを物語っている。
――覚えている。あの日の、口づけを。
ユウは、思わず指先を口元に当てた。
青い瞳の奥に、あのときの熱がふたたび揺れた。
「戻ってきたわ」
レイの声に、ユウはハッと顔を上げた。
レイが指差す先を、四人は息を殺して見つめる。
「随分・・・兵が・・・」
ウイの声が震える。
「そうね・・・減っているわ」
ユウがその続きを引き受けた。
遠目にも、出陣のときの姿とは比べものにならないことがわかる。
高々と天を突いていた槍は、いまや折れ、兵の杖代わりになっている。
シュリの唾を飲む音が見張り部屋に響いた。
その一歩一歩が重く、地面に引きずられるようだった。
多くの者が傷を負い、足を引きずっている。
馬でさえ、泥と返り血で毛並みが汚れていた。
先頭で手綱を握るゴロクの姿が見えた。
その背は小さく、顔には深い影――いつも以上に年老いて見える。
レイは何も言えず、ただ口を開けたまま立ち尽くしていた。
「お迎えをしなくては」
ユウは目を伏せたまま、窓辺から一歩離れた。
「ウイ、レイ・・・母上のところへ行くわよ」
二人は黙って頷く。
ユウは後方に控えるシュリへと視線を送った。
――妹達を警護して。
言葉はなくとも、その目がすべてを伝えていた。
短く、けれど確かな合図。
シュリも静かに頷き返す。
◇城へ向かうゴロクと兵達
城下へ続く街道の先に、白壁と青い屋根の城が見えてきた。
「見えたぞ、ノルド城だ!」
誰かの叫びに、疲れ果てた兵たちの顔がぱっと明るくなる。
鎧の下で擦り傷が疼こうと、脚が鉛のように重かろうと、この瞬間だけは足取りが軽くなる。
「やっと戻れる・・・」
「城に入ったら、まず風呂だな」
互いに笑い合う声が列のあちこちで上がった。
城を望んだ兵たちは、互いに肩を叩き合い、声を上げた。
だが、その中央でゴロクは黙ったまま、馬上から白壁を見据えている。
周囲の笑い声は遠く、馬の蹄音と胸の奥で重く響く敗北の音だけが残った。
――この城が落ちてしまう。
領主としての誇りと責任が、疲労が溜まった背をさらに重くする。
「ゴロク様、シリ様と姫様方がお待ちでしょう」
側に寄ったマナトの声に、ゴロクは小さくうなずいた。
兵たちは歓喜の声をあげてノルド城へと入っていく。
その声を後ろで聞きながら、ゴロクは誰にも聞こえぬほどの声でつぶやいた。
「ようやく帰ったが・・・これが終わりではない」
◇レーク城 シリの部屋
「シリ様・・・そろそろ」
老臣ハンスが静かに促した。
「すぐに行くわ」
シリは衣装室の奥、薄暗い棚の引き出しを開ける。
そこには細いナイフが横たわっていた。
蝋燭の明かりが刃に沿って走り、鋭い光が返ってくる。
それは二十歳の春、ワスト領に嫁ぐ日の朝、ゼンシが無言で差し出したものだった。
あの日はただ冷たく硬いだけの鉄だったが、今はその重みが胸の奥まで沈む。
「・・・また、これを身につける日が来るとはね」
白い帯の奥深くにナイフを忍ばせた瞬間、胸の奥にひやりとした覚悟が沈む。
廊下を進みながら、シリの心には、安堵とも悲しみともつかぬ感情が入り混じっていた。
――戦に敗れて戻る夫を迎える。
それが、領主の妻としての最後の務め。
衣擦れと足音が廊下に響き、玄関前に立った三姉妹は母の姿に息を飲んだ。
その背筋の真っ直ぐさに、何か取り返しのつかない予感が漂う。
ユウは乱れた襟を直されながら、母をまっすぐ見上げる。
ウイは視線を落とし、レイは唇をきつく結んだまま。
「笑顔で迎えましょう」
シリの声に、三人は小さくうなずいた。
「城門を開けて!」
シリの号令と同時に拍手と歓声が庭に満ちる。
ゆっくりと、馬に乗ったゴロクが門をくぐる。
その背に刻まれた年月を見つめ、シリは唇の奥でつぶやいた。
「・・・これが終わりではないわ」
ゴロクが馬を降り、鎧の音と、重たい足音が近づいてきた。
その先に、泥にまみれたゴロクの姿が見えた。
シリと三姉妹は深々と頭を下げる。
「ご無事のお帰り、お待ちしておりました」
シリが穏やかに言う。
後ろにいる三姉妹は、頭を下げたままだ。
ゴロクは深くうなずき、低い声で返した。
「・・・まだ終わらんぞ」
二人の視線が短く交わり、お互い強く頷いた。
庭の歓声とは裏腹に、その空気だけが重く沈んでいた。
次回ーー本日の20時20分
血の匂い漂うホールで、ユウたちは初めての看護に挑む。
一方、敗戦を悟ったゴロクに、シリは静かに告げた。
「私は妃。最後まで寄り添います」
嵐の前の口づけが、二人を照らしていた――。
⚫︎エッセイのお知らせ
小説執筆について綴ったエッセイも書いています。
創作の裏側や、続ける苦しさと楽しさなどを素直にまとめています。
『池でマグロを狙うなーー非テンプレ作家がSSでPVが跳ねた話』(雨日のエッセイ)
https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/
気軽に読める内容なので、休憩のお供にどうぞ。




