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甘い香りの、別れの朝

翌朝、ノルド城にはいつもより慌ただしい空気が流れていた。


今日は、ゴロクが帰還する日。


玄関前では迎えの支度が進み、廊下を行き交う足音が途切れることはない。


厨房も、帰ってくる兵たちのために大量の食事作りに追われていた。


鍋から立ちのぼる湯気、包丁の音、肉の焼ける匂い。


戦から戻る男たちを迎えるための、城中の気配がここに詰まっている。


支度を終えた厨房の者たちに、シリは声をかけた。


「こんなに、たくさんの食事・・・ありがとう」

柔らかな微笑みを浮かべる。


「今まで、本当にありがとう。無事に生き延びることを願っています」

後ろには、賃金の袋を抱えたハンスが控えていた。


「ありがとうございます」

使用人たちは頭を下げ、袋を受け取る。


最後に、料理長が進み出て言った。


「こちらが、皆さんの夕食になります」


「助かるわ。・・・ゴロクの好物の、タラのフライ。最後に美味しいものを・・・ありがとう」

シリは深く頭を下げた。


「いえ・・・シリ様、こんなに頂いて・・・よろしいのですか?」

料理長は袋の重みに戸惑う。


「お金は、死んだら持っていけないのよ。これから生きる者が使うべきだわ」

シリは穏やかな顔で言った。


「・・・今までお世話になりました」

料理長は深々と頭を下げた。


やがて厨房は、人気がなくなった。


静まり返った空間に、油の香りと、さっきまでの熱気だけが残る。


シリはそのまま、三姉妹の部屋へ足を運んだ。


――これが、実質的に子供たちと過ごす最後の朝食。


これから辛い現実が、あの子たちを待っている。


せめて今は、笑っていられるひと時を――。


「おはよう」

シリは明るく朗らかな声で、三姉妹の部屋の戸を開けた。


ユウは読んでいた本を閉じ、ウイは刺繍の手を止める。

レイは鏡をのぞき込んでいたが、振り返って微笑んだ。


「おはようございます」

三人が静かに声をそろえる。


――大切な人と、ずっと一緒に過ごせると思っていた。


その夢は、結婚して五年で途絶えた。


けれど、愛しい人の面影を残す娘たちがいる。


そして、その中には自分の生き写しのような娘も。


この三人は、何ものにも代えられない私の宝物――。


シリはそっと微笑み、席に座った。


「気持ちが良い朝ね」



ヨシノが静かに皿を運び、朝食の配膳を手伝ってくれる。


「このオムレツ、美味しそう!」


目の前に置かれた黄色のオムレツにシリは声をあげる。


「はい。美味しかったですよ」

毒味を終えたヨシノが頷いた。


「母上、エマが作った薬草湯を飲んだことがある?」

ユウは恐る恐る尋ねた。


この前、実際に目にしたその液体は、筆舌に尽くしがたい存在感を放っていた。


「ありますよ。あなた達を産んだ後に、飲んだの」

シリは苦笑いを浮かべる。


「どう・・・だった?」

ウイは背後に立つエマの顔色を伺いながら、恐る恐る続けた。


「すごかったわ」

シリも、後ろから突き刺さるようなエマの視線を感じながら、肝心なことはあえて口にしない。


「そのお陰で、シリ様は産後の肥立が良かったのです」

エマがきっぱりと口を挟んだ。


「エマ、ウイを妊娠している時にも飲ませようとしたわよね」

シリが笑みを含ませながら話す。


「そうですよ。シリ様はあの時、何も召し上がらなかったので、

なんとか元気になってもらおうと・・・心を砕いて」


「・・・あの時、飲めなくてごめんね」

シリは申し訳なさそうに微笑む。


「エマ以外は作れないのよね?」

レイが確認するように尋ねた。


その声には――自分たちは何としても飲むのを回避したい、という下心が滲んでいる。


「ご安心ください。この前、ヨシノに作り方を伝えました」

エマは力強く言い放った。


三姉妹は同時に息を呑む。


――伝承されてしまった。あの液体が。


レイは小さく椅子を引き、逃げ道を確保するように足をずらす。


ウイはスプーンを持ったまま固まり、ユウは眉をひそめてカップの縁をなぞった。


強張った娘たちの顔を見て、シリは思わず吹き出した。


声をあげて笑う母の姿に、三姉妹は顔を見合わせ、つられるように笑った。


焼きたての香りがふわりと立ちのぼる。


いつもの朝食、いつもの笑顔――

当たり前の日々の中にこそ、大きな幸せがある。


朝食後のテーブルには、金色に熟したチーズが並べられていた。


銀のポットからは、温めた牛乳に蜂蜜を溶かした甘い香りが立ちのぼる。


「美味しいわね」

シリは目を細め、カップを口に運んだ。


「母上・・・今日は、ゴロク様がお帰りですよね」

ユウは手をカップに伸ばさず、まっすぐにシリの顔を見つめていた。


「・・・そうよ」


「母上・・・ゴロク様は・・・本当に・・・死ぬ覚悟で・・・」

ユウはそこまで言って、声を詰まらせた。


カトラリーの音が、ぴたりと止まった。


甘いミルクの香りだけが、静かな空気に漂っている。


「そうです。ゴロクは、死ぬ覚悟でこの城に戻ってきます」

シリは静かにカップを置く。


その瞬間、穏やかな部屋の空気が、音もなく変わった。


「・・・どうして・・・どうして、ゴロク様は・・・」

ウイの群青色の瞳は、今にも涙であふれそうだ。


「ウイ」

ユウが一言だけ名を呼ぶ。


シリは強張ったユウの顔を見、それからウイの震える目へ視線を移した。


レイは何も言わず、小さな唇をきつく噛みしめている。


「ゴロクは領主なのです。敗戦が確実になったら、領主は死ぬのが当然のこと」

シリは淡々と告げた。


そして、少しだけ声を和らげる。

「短い間でしたが・・・ゴロクはあなた達にとって、良い父親でした。

戻ってきたら、きちんと挨拶をしましょう・・・ね」


「シリ様、よろしいですか」

扉の向こうから、ハンスの声が響く。


――最後の朝食は、これで終わり。


楽しい時間だったからこそ、終わりが来るのが切ない。


「美味しかったわね。それでは領務に戻ります」

シリは名残惜しそうに席を立った。


三姉妹は、しばらくテーブルから離れなかった。


ふわふわのオムレツの湯気と、甘いミルクの香り。


姉妹で交わした何気ない会話。


後ろに控えていたエマの、厳しくも温かなまなざし。


そして――屈託のない母の笑顔。


その温もりが、胸の奥でゆっくりとほどけていく。


香りも笑顔も、この先どれほどの時が流れても、消えることはなかった。



次回ーー明日の9時20分


ノルド城に、ついにゴロクが戻った。

敗戦の影を背負いながらも、領主としての誇りを胸に――。

そしてシリは、白い帯に忍ばせた刃と共に、最後の務めを果たそうとしていた。



ついに最終章に入りました。

残り39話、この物語もあと20日で幕を閉じます。

最後までどうぞよろしくお願いいたします。


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