死ぬより辛いこと
◇ ノルド城 シリの部屋
「エマ、話したいことがあるの」
シリは、硬く、はっきりとした声で言った。
――この声音。十年前にも、同じ響きを聞いた。まさか。
エマは真っ青な顔で、静かに問い返す。
「・・・なんでしょう」
シリは手で、エマに椅子に座るよう促した。
産まれた時からそばにいた乳母。
厳しい心だったけれど、誰よりも自分を大事にしてくれた人。
そのエマに、このことを告げるのは辛かった。
「・・・私は、この城に残ります」
ーーやはり。
エマは辛そうに目を閉じた。
予感はあった。
けれど、理由までは読めなかった。
「・・・気づいていたの?」
「当然です。シリ様のお側について三十五年。そうだろうと薄々」
痩せて曲がった手の指を、ゆっくりと撫でる。
「エマ・・・ごめんね」
「シリ様は、なんでもお一人で決める。もっと私を頼ってくださればいいのに・・・」
声がわずかに震える。
「あなたを傷つけたくなかったの」
シリは身を乗り出した。
「どうしてですか? シリ様はゴロク様を・・・グユウ様のように想っていない。
それなのに、なぜ一緒に死ぬおつもりですか!」
エマの目から涙がこぼれた。
――エマの脳裏に、十年前の光景がよみがえる。
十年前、シリはこう言った。
『生き残って政略の駒になるより、好いた人と死にたい』
あのときはグユウとレーク城に残る覚悟だった。
今は、ゴロクに対しての熱情はないはずなのに。
シリはエマの椅子に身を屈め、真剣な眼差しで見つめた。
「キヨが勝利したということは・・・モザ家も滅びるのよ」
「・・・そうですね」
エマは小さく頷く。
眉間に皺が寄り、浅い息が漏れた。
キヨはシズル領を滅ぼした後、ミンスタ領を攻めるだろう。
「今のキヨの戦力では・・・マサシも敵わない」
シリのつぶやきに、エマは首をわずかに傾げた。
ーーそれが・・・シリ様と何の関係があるのだろうか。
シリは両手にエマの皺のよった顔を挟み、真面目な目つきで優しくその瞳を覗き込んだ。
「私はモザ家の象徴です。そのためにゴロクに嫁いだ」
「はい」
「その私がキヨのもとに降れば、モザ家が完全にひれ伏したことになる。それは・・・国中に広まる」
エマは口を開きかけ、息を詰めて閉じた。
「そんな・・・象徴とか、そういうことは男が考えるものです。
女は命まで落とす必要は――」
「私は妃であり、領主でもあります。この敗北は私の責任」
「シリ様! 考え直してください! 生きて、姫様たちと一緒に――」
シリの顔が陰る。
「・・・あの子たちのことを思うと辛い。でも、これはもう決めたの」
「生き延びれば、キヨの妾になるのは目に見えている」
エマは手を伸ばしかけ、力なく下ろした。
ーーあの男が、昔からシリに執心していたことは知っている。
シリはまっすぐにエマを見つめ、静かに言った。
「女は好きな道を歩めない。けれど・・・死ぬ時くらい、自分の意思で決めたいのよ」
エマは呆然としたまま、椅子から立ち上がれなかった。
「・・・シリ様、死ぬのは苦しいですよ」
――こんなことを言っても、シリの決意は変わらない。
それでも、口にしてしまう。
そして、そう言ってしまう自分を恥じた。
シリは柔らかく微笑んだ。
「エマ、お願いがあります」
その響きは、エマが最も恐れている言葉だった。
エマは何も言わずに顔を上げる。
「・・・私が死んだ後、子供たちをお願いします」
――また、この台詞。
十年前にも聞いた。
「シリ様・・・あなたは残酷なお願いを私にする」
エマの痩せた手は、ぎゅっとエプロンを掴んでいた。
「エマ・・・お願い」
シリは深く頭を下げる。
エマは、まっすぐに前をむいて口を開いた。
「お断りします」
その声は厳しく、揺るぎなかった。
「エマ? どうして?」
シリの瞳に、すがるような色が宿る。
「・・・あの子たちは、あなたがいないと不安定になるわ」
エマはシリの手を取り、じっと見つめた。
「シリ様、十年前と違って・・・あの姫様たちは成長しました。
私は姫様たちも心配ですが、それ以上に・・・シリ様のほうが心配なのです」
「私? 私は平気よ!」
シリは声を張る。
「・・・あの時と違って、最期の時にグユウ様はおりません。
だからこそ、シリ様を支える人が必要なんです」
「エマ・・・だめよ。それはだめ!」
シリの声が大きくなる。
「姫様たちには乳母が三人。そしてシュリもいる。
支える人はいるのです。けれど・・・シリ様には、誰もいません」
「エマ! やめて! 死ぬのは痛いのよ、苦しいのよ! 私に付き添う必要はない!」
シリは必死に顔を振った。
「シリ様とご一緒なら、苦しくないです。痛くもないです」
「どうして、エマ?」
シリの瞳が、涙で揺れる。
「好いている人・・・誰よりも愛おしい人を失う痛みのほうが辛い・・・。
シリ様は・・・その苦しみを10年味わいました。私にも・・・それをさせるのですか?」
シリの顔が辛そうに歪む。
ーーグユウを失った悲しみ、痛み、辛さ。
自分は、その苦しみをエマに委ねようとしていたのだ。
「シリ様、私は最後まで一緒にいます」
エマは深く頷いた。
「エマ・・・」
シリは震える手でエマを抱きしめた。
「ごめんなさい。エマ、ごめんなさい」
シリは若々しい頬を、エマのしぼんだ頬にすり寄せ、背を撫でた。
「シリ様・・・ずっと一緒です」
エマは、自分の娘を固く、優しく抱きしめた。
――離さずにいられたら、それだけでよかった。
窓の外では、夜が深まりつつあった。
朝は、必ず来る。
次回ーー本日の20時20分
翌朝、ノルド城には慌ただしい気配が満ちていた。
シリは三姉妹と共に、最後となる朝食を囲む。
笑い声と甘い香りに包まれたひととき。
だがその裏には、ゴロクが「死の覚悟」で戻る現実が迫っていた。
⚫︎お知らせ
エマが主人公の短編公開中
『それでは、殿方に好かれませんーー 乳母が見た姫の輿入れ』
https://book1.adouzi.eu.org/N9034LB/
シリの輿入れから十日間、乳母エマの目を通して描いた物語です。
連載で描かれる「終わり」と響き合うように書きましたので、あわせてお読みいただければ嬉しいです。
次話から、最終章「血を繋ぐ」
シリと娘たちの物語は、いよいよ結末へ。
ここまでお読みいただいた皆様に、心からの感謝を。
どうか最後まで、この家族の行く末を見届けていただけますように。




