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私は、もう誰かの妹でも、妻でもない――母として、生きる

◇ワスト領 キヨの陣


戦場の余韻が、まだ土と血の匂いを残していた。


キヨは本陣で報告を待っていた。

空は晴れわたり、風が吹いている。


――それは、まるで時代の風そのもののようであった。


「キヨ様ッ!」


駆け込んできた使者の声に、キヨは扇を止めて顔を上げる。


「ノルド城へ、ゴロク殿敗走との報。すでに道中、味方の兵が追撃を開始しております!」


「・・・ほう!」


キヨは立ち上がった。

目を大きく見開き、しばし言葉もなかった。


やがて、口の端がにやりと吊り上がる。


「ゴロク・・・逃げたか。あのゴロクが!」


大きく、笑った。


「はははは! まさか、あの不器用な頑固者が、尻尾を巻いて逃げ出すとはな!

いや、さすがのゴロクも、もう抗えぬと見たか!」


手に持っていた扇を大きく開いて、天にかざす。


「見たか、ゼンシ様――このキヨ、勝ち申した!」


誰にともなく叫んだ。

その目は、かつての主・ゼンシを仰ぐように、空の彼方を見ていた。


「これで・・・これでわしが、ゼンシ様の跡を継ぐ男じゃ。

世は、わしの手の中に入った!」


誰よりも小さく、誰よりも下から始まった男の叫びだった。


家臣たちが次々と膝をつく。


「キヨ様、万歳!」


「キヨ様、万歳!」


勝鬨があがる。

旗が翻り、風が吹く。



陣屋の奥、争いの処理を進めるため、キヨは弟のエルと家臣のイーライを呼び寄せていた。


部屋には地図と報告書が散乱し、勝利の余熱がまだ冷めていない。


キヨは豪快に扇を開いたまま、笑い声をあげた。


「いやはや、まことに見事だったイーライ!お前のノアに対する凋落は百点満点じゃ!」


イーライは、きちりと座ったまま、少しだけ頭を下げる。


「いえ、勝利はキヨ様の采配と、兵の勇にございます」


「堅いのう、お前は・・・! ノアを味方に取り入れたのは大きい。もっと喜べ、勝ったのじゃぞ!」


キヨは笑いながらワインが入ったグラスを差し出すが、イーライは固辞する。


「まだ、争いは終わっておりません」


それまで黙っていたエルが口を開いた。


「兄者、ノルド城は・・・どういたします?城にはゴロク様とシリ様が・・・」


その名を聞いた瞬間、キヨの笑みが、かすかに止まった。


扇の動きがぴたりと止まる。


「・・・シリ様、か」


その言葉は、争いの勝利よりも重い響きがあった。


イーライが首をかしげた。


「シリ様とは、ゼンシ様の妹にして、ゴロク様の妃・・・」


「兄者は、ずっとシリ様を慕っている」

エルが耳打ちをするように話す。


「やめい、エル」

キヨが低く言った。


笑顔の裏に、何かが沈んでいる。


「シリ様は・・・わしなど、眼中になかった。

ゼンシ様の妹として、気高く、美しく・・・そして冷たかった」


珍しく、語尾が弱かった。


そのときだけ、勝者ではなく、一人の男の顔だった。


「ようやく・・・わしのものになる。ようやくだ!!」


エルが、そっと兄の顔を見た。


「兄者。落ち着いて・・・」


「それは、わかっている」


キヨはぽつりと答えた。


「だが・・・ゴロクは死ぬ。ノルド城に、退いたということは、腹を決めたということじゃ。

争いに敗れたのだから・・・シリ様はわしの庇護の元になる!」


キヨは笑った。


「笑いが止まらぬ・・・シリ様は、ついにわしの者になる」


だがその奥底に、

誰にも渡せなかった想い――

シリへの、恋情の残り火が、静かに燻っていた。


◇ ノルド城 シリの部屋


部屋の中は、静かだった。

窓から差し込む光に、わずかに舞う埃が揺れている。


地図が広げられた机の前で、シリは背筋を伸ばして座っていた。

その指先は、砦と領内の位置を何度もなぞっていた。


「領民達の避難先は南、東、西側の砦にしましょう」


淡々と語る声は、どこか凛としていた。


傍らにはエマが控え、記録係がペンを走らせている。


「井戸の水量と、倉庫に残る食料の確認を。今すぐに」


その後、静かに息を吸う。


「この城の食糧庫から持っていくと良いわ。もう・・・この城は」


ーー豊富な食料は不要だ。近日中に滅びる。


そう言うのを控えた。


語らぬ思いを意図したエマが静かに呟く。


「承知しました」


エマが返事をすると、すぐに背後の使用人が走り去っていく。


「命が惜しい兵には暇を出しましょう。なるべく多くの命が・・・助かってほしい」


「しかし・・・シリ様、それでは・・・この城が」


一人の兵が不安げに口を挟む。


シリは、その言葉に一度だけ目を上げた。

けれど、怒りも嘆きも浮かべず、ただ静かに言った。


「良いのよ。ゴロクも同じように判断するわ。あなたも・・・逃げて良いのよ」


その言葉に、兵は言葉を詰まらせ、静かにうなずいた。


「・・・皆に伝えておきます」


部屋を出ていく兵たちの背を見送り、シリはゆっくりと息を吐いた。


エマが小さな声で尋ねた。


「・・・お辛くは、ありませんか?」


「ええ、とても。でも・・・泣いている暇はありません」


少し、目を伏せてから言葉を継いだ。


「前の争いでは、いつもグユウさんが隣にいたの。

無言で地図を見つめながら、ふっと笑って・・・

“お前なら大丈夫だ”って、あの人、いつもそういう顔をしていたわ」


一瞬だけ、遠い記憶が胸によみがえる。


――グユウは、シリの提案を否定することは一度もなかった。


いつも、黙って頷いてくれた。


『シリなら大丈夫だ』

それが、彼の口癖だった。


反対する重臣の意見に挟まれて困っているときも、

柔らかな声で場を収め、静かに味方してくれた。


あの黒く深い瞳には、

いつも――自分への信頼と愛情が宿っていた。


ーー私は、もう一人なのだわ。


胸の奥が、静かにきしむ。


けれど、顔には出さず、地図に向き直る。


「グユウさんと約束したの」


ほんの一瞬、声がかすれる。


「あの子達の命を守るの。セン家の血を守らないと。

あの子たちが、笑って生きられる未来があれば、それでいいのよ」


エマがそっと目を伏せた。


けれど、シリはすぐに顔を上げる。


「私は、もう誰かの妹でも、妻でもない。

ただ、子どもたちと、この土地を守る者として、立っているだけです」


シリは、机の開いてない引き出しを見つめた。


そこには娘たちのために縫っている小袋がある。


「・・・ゴロクが戻ってくるまで、妃として指揮をとるわ」


そう言って、つぶやいた。


静寂の中に、敗戦の気配がじわじわと滲んでいた。




◇ ノルド城 城門前


その頃、ノルド城の城門に、一人の青年が馬を駆って近づいていた。


肩には血に染まったマント。

背筋は曲がり、顔色は青ざめ、馬の背にかろうじて身を預けている。


「・・・誰だ?」


見張りの兵が眉をひそめ、警戒して槍を構える。

疲弊しきった青年の姿は、遠目には敵か味方かもわからない。


だが、馬があと数歩近づいた瞬間――


「・・・あれは、シズルの馬・・・!」


兵が叫んだ。


「まさか・・・シュリ!?」


血の気が引いたような声とともに、兵たちは慌てて槍を下ろした。


「シュリ、怪我を――!」


「・・・ただいま、戻りました」


シュリは、かすれるような声でそう告げた。


足元がふらつく。


彼はそのまま馬からずるりと崩れ落ちた。


兵たちは叫びながら駆け寄る。


「シュリ!しっかり!」


土埃が舞う城門の前に、

シュリの帰還は、静かに、けれど衝撃的に刻まれた。





次回ーー 本日の20時20分


シュリが血まみれで帰還した。

涙の再会のはずだった。だが、ユウの胸に広がるのは安堵ではなく――嫉妬。

「フィルと…何があったの?」


⚫︎お知らせ


この物語の短編を書きました。


タイトルは 「結婚から三週間、初めて妻に『好いている』と告げた日」


寡黙な領主グユウが、政略で嫁いできた妻シリに初めて想いを伝えるまでを書いた、

三週間目の小さな物語です。


こちらから読めます

https://book1.adouzi.eu.org/n7754lb/


こちらも良かったらどうぞ。


秘密を抱えた政略結婚の世界観が深まります。


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