一度だけの、本気の恋
◇ 夜明け前 フィルの生家
東の空が、ほんのりと白み始めていた。
フィルは、立ち上がった。
足音を立てないように、毛布をはだけ、炉の前をそっと抜ける。
隣の部屋の扉を、ゆっくりと押し開けた。
薄暗いベッドの上、彼は静かに眠っていた。
火の落ちた炉の赤みが、横顔を照らしている。
ーーまつげ、長い。
こんな顔、誰にも見せないんだろうな。
手を伸ばしかけて、引っ込める。
でも、また伸ばす。
子どものような寝顔だった。
静かな寝息。緩んだ口元。乱れた前髪。
こんなに無防備な彼を見たのは、初めてかもしれない。
「・・・ずるいわ」
フィルは小さく呟いた。
誰からも愛されて、姫にも信頼されて、
そのくせ、何も欲しがらないふうをして。
ーー私なんて・・・。
気づけば、彼のベッドに手をかけていた。
心臓の音が、耳の奥で鳴り響く。
ほんの少し、身を乗り出す。
シュリの睫毛が、微かに揺れた。
けれど、起きる気配はない。
胸の奥が震えていた。
ただ、止められなかった。
彼の温もりを、確かめたくて仕方がなかった。
ゆっくり顔を近づける。
その時ーーシュリのまぶたが、ゆっくりと動いた。
「・・・フィル?」
驚きよりも、戸惑いがにじんだその声に、フィルは言葉を詰まらせる。
戸惑う彼の瞳を見つめながら、フィルは唇を重ねた。
唇が触れ合った瞬間、シュリの大きな瞳がさらに見開かれる。
そのまま、もう一度、確かめるように唇を押し当てようと身を乗り出したとき――
シュリの手が、そっと彼女の肩を押し返した。
そして静かに身体を起こし、座り込む。
何も言わずに足元に手を伸ばし、靴下を履きはじめる。
「・・・もっと、自分の身体を大切にした方がいいですよ」
淡々とした声だった。
その言葉に、フィルは息を呑み、頬を赤らめた。
――拒まれた。
驚き、失望、屈辱、惨めさ、悲しみ、怒り。
いくつもの感情がいっせいに胸の奥で膨れ上がる。
思わず口をついて出た。
「・・・じゃあ、どうすればいいの?」
声が震えていた。
問いというより、叫びだった。
ーーこんな風にしか、男性と接することしか知らなかった。
だって、自分は妾だったから。
胸を寄せて、口づけをすれば男の人は自分を抱いてくれる。
そう思っていた。
「・・・フィルは、何もしなくても、十分魅力的な人です。
だから、こんなことをする必要なんて、ありません」
シュリは、視線を逸らしたままそう言った。
「なら・・・どうして相手にしてくれないの?」
フィルは立ち上がり、彼のシャツの裾をぐっと掴む。
「それは・・・」
シュリの瞳が揺れる。まっすぐ見つめ返すことができなかった。
「私・・・あなたのことが、好きなの」
ついにフィルは言葉にしていた。
それまで胸の内で膨らみ続けていた想い。
痛みとも愛しさともつかない感情が、涙となってこぼれ落ちる。
「シュリ君のことが、好き。・・・好きなの」
フィルはシュリの胸に飛び込んだ。
「お願い・・・ここに残って。一緒に暮らしましょう。
争いもない、この場所で・・・牛を育てて、軟膏を作って、
子どもを産んで・・・私たち、家族になりましょう」
しがみつくように彼を抱きしめたフィルに、シュリは何も返さない。
ただ、驚いたように大きな目を見開いたまま、動けずにいた。
しばらくの沈黙のあと――
「フィル・・・すみません。それは、できません」
シュリの声が落ちてきた。
「どうして? どうしてなの?
ノルド城なんて、もうすぐ落ちるのよ?
シズル領は、滅びるのよ・・・。そんな場所に戻って、命を捨てるの?」
シュリはふっと、笑ったように口元を歪めた。
「・・・自分でも、馬鹿なことだと思っています」
「なら・・・ここに残ってよ!私と一緒にいれば、助かるのよ!」
フィルの叫びを、シュリは黙って受け止めた。
しばらく視線をさまよわせたあと、静かに彼女を見つめた。
「・・・フィルは、本当に綺麗な人です。
一緒に暮らしたら、きっと穏やかで、楽しい日々になると思います」
その言葉に、フィルの瞳が光を宿しかけた。
けれど。
「でも、自分には・・・戻らなければならない場所があります」
彼の言葉は、静かで、揺らがなかった。
その瞳の奥に浮かんでいたのは――ユウの面影だった。
ーー傷ついた彼女。
それでも前に進もうとする、強く、壊れやすい人。
「・・・帰らないといけないんです。あの人が、何も言わずに背負ってしまうから」
その言葉に、フィルの胸がスッと冷たくなる。
ーーまた、あの姫なのね。
どうして、この人は、あの姫に夢中なのだろう。
二人の強い絆がたまらなく悔しい。
「姫様は、いずれ他の領主と結婚するのよ」
フィルの声は低く、憐れむようだった。
「叶わない恋なのよ。
あなた、一生独りで・・・報われない想いを抱えたまま、生きるつもり?」
その言葉に、シュリは一瞬だけ目を伏せた。
それから、また彼女を見つめた。
「・・・自分でも、愚かだと思っています」
そう言って、彼はフィルの腕をやさしく解いた。
「ごめん。そろそろ城に戻らなければ」
そう言って、荷物をまとめはじめた彼の背中を、フィルはただ見つめることしかできなかった。
空が、白み始めていた。
東の空に、薄く銀の光が差し込みはじめる。
「・・・もう、行くのか」
フィルの父が名残惜しそうに声をかけた。
「はい。お世話になりました」
シュリは深く頭を下げ、肩にかけた血で汚れたマントに視線を落とす。
「・・・フィルを送り届けるのに、苦労しただろう」
「とんでもありません」
静かに微笑んだその顔を見て、父の胸に痛みが走った。
娘が恋した相手は、こんなにもまっすぐで優しい男だったのだ。
しばらくの沈黙の後、父は低く言った。
「シュリ。・・・昨夜の話は、酔っぱらいの戯言じゃない。
本気で、残ってくれないか?」
年配の男の、真剣なまなざし。
その問いに、シュリは変わらぬ穏やかな表情を保ちながら、はっきりと答えた。
「せっかくのお言葉ですが・・・私は、任務がありますので」
その声には、揺るがぬ意思が宿っていた。
「・・・そうか。気をつけてな」
だらんと下がった父の腕が、別れの重みを語っていた。
シュリはゆっくりとあたりを見渡した。
春の気配が漂う、小さな村。
牛の鳴き声、炉の煙、目覚めかけた朝の音。
ここには争いも、血もない。
どこまでも穏やかで、優しい世界だった。
「ここは・・・のどかで、いいところですね」
彼はそう呟くと、馬の傍に歩み寄った。
「フィル、元気で」
その言葉に、フィルは黙ったまま、彼の顔を見つめた。
そして、ぽつりと呟く。
「・・・作るわよ」
「何を?」
「軟膏よ。ちゃんと成功させる。・・・あの妃に、成長した姿を見せてやるんだから」
それは強がりだったのか、決意だったのか。
でも、その目は、しっかりと前を見据えていた。
「その言葉・・・きっと、シリ様は喜びます」
シュリはやさしく笑い、馬にまたがる。
「それでは」
ひとことだけ残し、彼は手綱を引いた。
ぬかるんだ土を踏みしめる音とともに、馬が進み出す。
その背中が少しずつ遠ざかっていく。
フィルは、思わず2、3歩、駆け出した。
追いつけないとわかっていても。
止められないと知っていても。
――好きだった。
優しくて、強くて、まっすぐで、少しだけ馬鹿な人。
一緒に、幸せになりたかった。
でも。
もう、二度と会えない。
フィルの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は、かつて妾だった。
愛される方法を知らず、誰かにすがることしかできなかった。
けれど。
この別れのあと、彼女は変わった。
軟膏を売り、商いを覚えた。
やがて、女商人として名を上げていく。
けれど――
時折、あの姫様の噂を耳にするたびに、
その傍に立っているであろう、茶色の瞳の青年を思い出す。
そのたびに、胸が痛んだ。
過ぎ去った、たった一度の本気の恋。
それは、強く優しく、美しい傷となって、
フィルの心に静かに残り続けていた。
◇
彼女の旅路は、この別れから始まった。
このお話を書きながら、何度も涙がこぼれました。
フィルは、不器用で、愛されたいと願う女の子です。
ちょっとずるいところも愛すべきキャラクラーでした。
彼女が誰かにすがるのではなく、自分の足で立っていく――
そんな未来を願いながら、書きました。
次回ーー明日の9時20分
春の光の中、娘たちは静かに作業を続けていた。
けれど、迫る戦火と城の運命に、シリはひとつの決断を下す。
敗北と別れを背負い、それでも進む者たちの物語。
その春は、やがて血に染まる。




