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ここで暮らしなさい

テーブルの上には、湯気を立てた料理がずらりと並んでいた。

焼きたての鶏の丸焼き、茸のスープ、甘く煮た野菜、干したアンズの甘い香りまで漂ってくる。


「すごい! 鶏肉の丸焼き!」

ウイの声が弾む。


「今日は、皆が頑張った日でしょう? 厨房にお願いしておいたの」

シリが柔らかく微笑んだ。


「シュリ、鶏を――」

思わず口にしたエマが、ハッとして口元に手を添える。


「・・・失礼しました。そうでした、シュリは・・・」


笑顔を浮かべていたユウの表情が、ふと翳った。


ーーいつもなら、こういうとき、

シュリが包丁とナイフを手に、皆の前で鶏を切り分けてくれたのに。


ユウは思い出していた。


首の骨についた肉を、さりげなく自分の皿に取り分けてくれたこと。


ーー誰にも気づかれないように、静かに、優しく。


そのシュリはいま、敵地の中にいる。


フィルを生家に送り届けるという任務の最中。


ーー戻ってくる保証など、どこにもない。


ふと、ユウの脳裏にフィルの瞳が浮かんだ。


あの眼差し。


シュリを見つめるその光の中に、たしかに恋慕の色があった。


美しい容姿、豊満な身体――お似合いの二人だと思った。


「もう、そろそろ城に戻る頃ですか?」

エマがシリに尋ねた。


「順調なら・・・ね。敵を避けて、遠回りをするように伝えてあるの。

だから・・・いつ帰るか、わからないわ」

シリはため息まじりに言った。


厨房が取り分けてくれた鶏肉は、十分に美味しかった。

けれど、ユウの皿に“あの部位”はなかった。


ほんの一口食べただけで、なぜだか泣きたくなった。


ーーシュリ。

今、どこにいるの・・・?


◇ 森の中 シュリとフィル


地面に倒れた三人の兵士を見下ろしながら、シュリはわずかに視線を逸らした。


「・・・先へ進みましょう」

押し殺したような声だった。


フィルから手綱を受け取った瞬間、彼女の身体がふっと傾き、シュリの胸元に額が触れた。


「・・・怖かったわ」

囁くような声と共に、仄かに甘い香りが漂った。


日頃つけていた香水の、名残だった。


破れたスカートの裂け目から覗く白い脚に、シュリは目を伏せた。


「・・・手綱は、握っています。奥で・・・着替えを」


それ以上、何も言わずに視線を戻すことはなかった。



夕暮れ時、フィルの生家が見えた。


夕陽に照らされた牧場。

牛舎へ戻る牛たちの、のんびりとした足取り。

それは争いに満ちた日々からは、あまりに遠い風景だった。


「・・・ここが、私の家」


村の中でもひときわ大きな石造りの家を見つめながら、フィルが呟いた。


「立派だね」

「・・・ええ」


馬を進めながら、シュリが応えると、フィルは静かに頷いた。


その家に、愛を感じたことはなかった。


継母とその娘、冷たい目線の中で育った日々。


フィルにとって“家”は、帰る場所ではなく、背を向けてきた過去だった。


玄関先。

以前は飾られていた鉢植えの花も、今は影も形もなかった。


扉を叩くと、年を重ねた男が姿を見せた。


「・・・フィル・・・?」


驚きと、どこか安堵の混じった声だった。


「・・・城が落ちそうなの。だから、帰ってきたの」


言葉を選ぶように、フィルは短く答える。


父の視線が、後ろのシュリに向く。


「その方は・・・」


「城から、送ってくれたの」


シュリは黙って一礼した。


「馬は・・・牛舎に繋ぐといい」


そう言った父の声に、フィルが一歩、前へ出る。


「・・・あの人は?」


冷たい響きが宿った声。


「あの人」――継母のことだった。


父は短くため息を吐き、苦笑に似た表情を浮かべる。


「・・・お前が城に上がった後、支給された金を持って、出て行った。行き先は、わからん」


「それでは・・・私はここで」


シュリは一礼し、踵を返そうとした。


「おい、お前さん!」


背後から声がかかり、シュリは動きを止める。


フィルの父が、思わず裾を掴んでいた。


「今からノルド城に戻るだと? 正気か?」


その言葉に、シュリは一瞬だけ迷いの色を浮かべた。


夜道には敵兵だけでなく、盗賊や獣、道迷いといった数々の危険が待ち受けている。


「今夜は泊まっていけ」


フィルの父が、短くしかし強く言った。


「・・・お言葉に甘えます」


シュリは静かに頭を下げた。



夕餉の席。


煮込まれた牛肉のシチューの香りが立ちのぼり、焼きたてのパンと新鮮な牛乳がテーブルに並ぶ。


牧場の夕方らしい、滋味あふれる温かさが食卓を包んでいた。


「酒はどうだ?」


「いえ、明日早く出ますので・・・」


シュリは笑みを添えて辞退する。


「名は?」


「シュリ・メドウです。セン家の姫の乳母子を務めております」


「乳母子・・・? なるほど、そういう役目か」


男は納得したように頷いた。


しばし、フォークの音と牛乳をすする音だけが食卓に残る。


そしてふいに、男は唐突に口を開いた。


「なぁ、フィル」


「・・・何?」


「お前、もう城に戻らずともいいだろう。ここで暮らせ」


「・・・え?」


フィルが目を瞬かせたその横で、男は続けた。


「そして、シュリ。お前が婿になれ。うちの牧場は人手が要るし、お前なら任せられる。

城仕えなんぞより、ずっと自由に、豊かになれる」


シュリはフォークを止めた。


「・・・突然、何を・・・」

シュリは苦笑しかけて、しかし言葉を飲み込んだ。


“婿”という言葉に、頭のどこかが熱を帯びる。


ーー自分が誰かの家族になる。


そんな未来を、一度でも想像したことがあっただろうか。


「冗談で言ってるわけじゃねぇ。使用人に未来があるか? 

どれだけ尽くしても、主が死ねばおしまいだ。だが、この土地には続きがある。生活が、家族がある」


静かに語られるその言葉に、シュリは言い返せなかった。


城の中でしか生きてこなかった彼にとって、その提案はあまりにも現実的で、温かかった。


思わず、フィルと目が合う。


彼女は、戸惑いと――ほんの少しの期待を浮かべていた。


シュリは何も言わず、ただ黙ってフィルの父の言葉を噛み締めた。


その横で、フィルがそっと視線を落とした。

次回ーー明日の9時20分


夜更けの部屋でシリが書いていたのは――キヨへの手紙。

「もし私が死んだら、あの子たちを託したい」

その言葉に、エマは言い知れぬ不安を覚える。


一方、フィルの生家。

父の温もりに安堵しながらも、シュリと姫の絆の深さを知ったフィルは胸を焦がす。

――このままじゃ、何も手に入らない。

夜明け前、彼女は静かに決意する。


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