君を守るために剣を抜いた
「なんだ、領民かよ」
茂みの奥から現れたワスト領の兵のひとりが、馬上のふたりを見てがっかりしたように吐き捨てた。
もう一人も、肩をすくめる。
「ちぇ、兵だったら褒美が出るってのに」
その会話に、シュリはわずかに胸をなで下ろした。
――今なら、殺されずに済むかもしれない。
すぐに逃げようと、手綱に手をかけかけた、その瞬間。
「・・・待て」
ひとりの兵が低く唸るように言った。
「この女・・・ずいぶんといい面してやがる」
目を細め、じろじろとフィルを見上げる。
その目は、獲物を品定めする獣のようだった。
「・・・たしかに、こりゃあ上物だな」
もうひとりがにやりと笑い、馬に近づく。
フィルの肩が小さく震えた。
視線の熱に、咄嗟に身体をこわばらせる。
「ちょっと、待っ・・・」
馬上から引きずり下ろそうとする動きに、フィルが声をあげる。
そのとき――
「・・・こいつら、縄で繋がれてるな」
一人の兵が気づき、腰の剣を抜いた。
「そのままじゃ引きずり下ろせねえ。切るか」
シュリとフィルをつなぐ、落馬防止の縄に剣を振り下ろす。
シュリが動こうとした、ほんの一拍前――
バサリ、と乾いた音がして、縄が切れた。
だが、その拍子に刃先がフィルのドレスの裾をかすめた。
「きゃっ・・・!」
布地が裂け、片脚が露わになる。
息をのむような静寂。
「・・・たまらねぇな」
一人が低くつぶやいた。
フィルの頬が真っ赤に染まる。
羞恥と怒りと、どうしようもない恐怖が胸を満たした。
「やめて・・・っ!」
かすれるような声で、フィルが叫ぶ。
そして、その声を合図にするように、
馬上のシュリの目が、鋭く光を帯びた。
「手綱をそのまま引いてて」
シュリは馬上で耳元に囁くように言い、手綱をフィルの手に預けた。
「えっ・・・ちょ、ちょっと待って、私そんなの――」
フィルが戸惑いを含んだ声を上げたその瞬間、
シュリは馬の腹を軽く蹴ってから、しなやかに地面へと飛び降りる。
「頼む、動かすな。そのまま手綱をしっかり握っていてくれ」
フィルの手に汗がにじむ。
馬の頭がわずかに揺れ、鼻を鳴らした。
シュリは軽やかに着地をし、剣を構えた。
領民にしては手慣れすぎた構えに、兵たちの表情がわずかに強張る。
まるで最初から訓練されていたような剣の構え。
そこには、村の若者が見せるような不安もぎこちなさもなかった。
ワスト領の兵たちが、息を呑んだ。
その動きに、何かが違うと気づいたのだ。
だが彼らは、もう引けなかった。
じりじりと間を詰め、包囲の形をとる。
次の瞬間、シュリが動いた。
一陣の風のように踏み込み、棍棒を構えた男の懐に――
一撃が火花を散らす。
鋼と鋼が触れ合う音とともに、男の武器が空を舞う。
続いて、弓を構えた兵が狙いを定めようとするが、その動きよりも速く、シュリの剣が頬を打ちつけた。
男は体勢を崩し、倒れこむ。
その背後、残るひとりの男が短剣を手に、馬上のフィルを狙って突進していた。
「フィル、伏せて!」
シュリの声とほぼ同時に、フィルの身体が反応した。
肩をすくめ、身を低くしたその瞬間。
剣が大きく振るわれた。
刃が男の胸を貫く。血が飛びちる。
男の体がゆっくりと、地面に崩れ落ちる。
全てが十数秒の出来事だった。
沈黙が、森を包んだ。
風の音さえ、今は聞こえなかった。
倒れたはずの兵たちが、呻き声をあげて身体を起こしかけた。
その動きに、シュリは一切の迷いを見せなかった。
足元の土を踏みしめ、一歩、そしてまた一歩、静かに間合いを詰める。
剣を振る。
鈍った動きでは、とても防ぎきれない。
鋭く振り下ろされた刀身が、一人の喉元を正確に断ち切った。
もう一人は呻きながら手を伸ばしたが、次の瞬間には胸元を貫かれていた。
剣の一振りごとに、確実に命が奪われていく。
ためらいはない。
それが、生き延びるために必要な判断だと、彼は知っていた。
最後の男が息を吐きながら崩れ落ちると、森の中には、再び静寂が戻った。
フィルは、馬上でその光景を凝視していた。
フィルの顔には、恐れも軽蔑もなかった。
ただ、静かに寄り添おうとするまなざしだけがあった。
――けれど、それだけじゃない。
その目の奥には、もっと複雑な熱があった。
恐怖と安堵。
矛盾した感情が波のように胸を打つ。
それよりも、ただ――守られた、という事実が、胸の奥を熱くしていた。
シュリは、血に染まった剣を静かに払った。
血生臭い空気の中で、ただシュリの息遣いだけが響いた。
フィルはその背を見つめ、呆然と立ち尽くしていた。
「・・・あなた、本当に・・・ただの乳母子?」
思わず、そう呟いていた。
息を呑むように、感情が喉を震わせた。
男たちは地面に倒れ、呻き声もやがて消えた。
シュリは立ったまま、剣を握りしめて動けなくなっていた。
刀身の先から、赤いものがぽたぽたと地面を染めていく。
「・・・う、そ・・・だ・・・」
小さくつぶやきながら、彼の指はかすかに震えていた。
いや、それより――胸が苦しい。
息が詰まりそうだった。
「シュリ・・・大丈夫?」
フィルが馬上から声をかける。
本当は近くに寄り添いたい。
けれど、シュリの言われた通り、手綱を引くことしかできない。
「・・・殺した」
シュリは自分の声とは思えないほど掠れた声で言った。
「俺・・・人を・・・」
目の前で倒れた男を見つめたまま、硬直していた。
「あなた、私を守るために・・・仕方なかったのよ。自分を責めないで」
「違う。俺・・・最後の一撃、迷いなく振った。怖いくらい・・・手が、動いた」
シュリは、地面に膝をついた。
「俺は・・・」
その続きを言おうとしたが、言葉にならない。
フィルは黙って、その背中を見つめていた。
しばらくの沈黙のあと、フィルが柔らかくつぶやいた。
「ありがとう」
「・・・」
シュリは黙ったまま、俯いている。
「あなたのお陰で・・・私は無事よ」
その言葉に、シュリは初めて彼女の方を向いた。
黄色の髪が風に揺れながら、フィルは微笑んでいた。
「・・・ありがとうございます」
シュリは口を開いた。
それは、守った相手にかけられるべき言葉ではないのかもしれない。
けれど、今の彼にはそれしか言えなかった。
赤く染まった剣を、布で丁寧にぬぐいながら、シュリは小さく深呼吸した。
血の匂いの中で、初めて少しだけ、生きているという実感が湧いた。
次回ーー本日の20時20分
◇ ノルド城
湯気を立てる料理の前で、ユウはただ唇を噛む。
――シュリ。今どこにいるの…。
◇ 森の小道 ― シュリとフィル
敵を退け、辿り着いた牧場で告げられた言葉。
「・・・シュリ。婿になれ。ここで暮らせ」




