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この人を幸せにしたい

◇ノルド城 シリの部屋


まるで何も起きていないかのように、妃の部屋では静かな作業が続けられていた。


だが、それは終わりの足音をかき消すための静けさでもあった。


「ゴロク達が帰還するかはわからないけれど・・・」


シリは、悩ましげに眉を寄せていた。


戻ってくる兵のために、食事の支度をすべきかどうか――


それが、今の彼女にとって最も現実的な課題だった。


窓の外に目をやっても、風に揺れる木の葉すら動いていない。


まるで城全体が、呼吸を止めているかのようだった。


あれから、彼女の元に手紙は届いていない。


戦況は、全く読めないものになっていた。


「日持ちのするものを厨房に頼みましょうか」

エマがそっと提案する。


「そうね。帰還が確実になれば、スープを用意すればいいわ」

シリが短く頷いた。


決断を重ねていく母の横で、

ユウは黙々と羊皮紙を折る作業に集中していた。


――忙しいのは、きっといいこと。


手を動かしていれば、考えなくて済む。

この城の未来や、自分の無力さ、そして・・・あの人のことも。


けれど、ふとした瞬間に、心が緩む。


シュリのことが思い浮かぶ。


雪が解けはじめたあの道は、きっと危険が多い。


彼は、無事に目的地までたどり着けるのだろうか。


――そしてそのあと、戻ってくるのだろうか。


落城が決まったこの城に、もう一度。


もしかすると、彼は・・・


フィルと共に、領民として静かに暮らすかもしれない。


その可能性が、ユウの胸をひりつかせる。


ふと、指先が唇に触れた。


――昨日、自分の方から、彼に口づけた。


触れたとき、シュリの瞳は驚きに大きく見開かれた。


けれど、その後、彼は・・・


震える腕で、強く、抱きしめてくれた。


そして今度は、シュリの方から――強く口づけてくれたのだ。


あの熱に浮かされたまなざし、手の震え。


そのすべてが、まだ唇に残っている気がして。


ーー忘れたく、ない・・・。


小さく囁くように、ユウはもう一度だけ、そっと唇に触れた。


それは、思い出をたどる動作ではなかった。


――今なお、彼の温度を求めている証だった。


だけど、彼が戻ってくる保証などどこにもない。


その事実だけが、胸を締めつける。


物思いに沈む姉の横顔を、レイはただ静かに見つめていた。


気づかぬふりをしながら。


けれど、すべてを、知っているようなまなざしで。



その頃――


シュリは、寒風を切って馬を走らせていた。


荒い息をつきながら、目は真っ直ぐ前を見据えている。


その胸に、ぴたりとしがみつくように抱きつくフィルは、

この非日常の状況の中で、密かに感謝していた。


――ユウのそばを、決して離れようとしなかった彼を、

今だけは、こうして独り占めできている。


振動に合わせて揺れる身体を密着させながら、

そっと顔を上げると、すぐ目の前に、

形のよい顎と、引き締まった頬、そして真摯な茶色の瞳が見えた。


――やっぱり、この子、きれいな顔をしてる。


戦の影を纏いながら、それでもどこかあどけなさが残る横顔。


思わず、フィルの腕に力がこもる。


もう一度、ギュッと彼の身体を抱きしめた。


その動きに、シュリの肩がピクリと強張った。


わずかに顔を背けるような仕草。


――こういうところも、可愛い。


すぐには逃げず、でも確かに戸惑っている。


そんな彼の反応に、フィルの頬が緩む。


柔らかな日が、木々の間から差し込んできた。


馬に乗るのは初めてのフィルには、もう随分と疲れが溜まっていた。

ただ乗っているだけとはいえ、乗馬は決して楽ではない。


その様子に気づいたシュリが、ちらと振り返る。


「・・・休憩しましょうか」


「・・・そうね。お腹も空いたし」


二人は、小さな池のある大きな木のそばに馬を停めた。


疲れた馬は水面に口をつけ、静かに水を飲んでいる。


シュリは馬の背を優しく撫で、労わるように餌を与えた。


フィルは、厨房が持たせてくれた昼食の包みを開く。

中には、厚く切られた肉のサンドイッチが入っていた。


「・・・こうして、シュリ君とご飯を食べるのは初めてね」


木の幹に頭をもたれながら、フィルはふと呟く。


「そうですね」


シュリは淡々と答えた。


「いつもは・・・どうやって食事してるの?」


「ユウ様が召し上がる前に、先にいただくことが多いです」


「なぜ?」


「・・・毒味です」


思いがけない答えに、フィルはサンドイッチを持ったまま、口を閉じた。


――姫たちに出される食事に毒が入っていないかを、

あらかじめ確かめる役目。


「・・・そう」


その声は自然と低くなった。


――この子は、食事を“楽しむ”ことをしていないんだ。


「・・・それは、責任の重い仕事ね」


「生まれた時からそうだったので・・・あまり気にしたことはありません」


あくまで平坦に、シュリは言う。


「・・・こうして、二人で食べるのって・・・いいものね」


フィルはふと笑った。


それは、嘲りでも、からかいでもない。

ただ自然にこぼれた、やわらかい微笑だった。


その表情は、とても優しくて、美しかった。


「・・・そうですね」


シュリは短く返しながらも、ふと目を伏せた。


その瞬間――


たしかに、何かが、静かにふたりの間に芽生えはじめていた。



昼食を終え、ふたりは再び馬にまたがった。


揺れる馬上で、フィルはしっかりとシュリの身体にしがみつく。


少年の名残がある胸に額を寄せながら、ふと、ある想いが胸をよぎった。


――この子は、本当に特別な場所で生きてきた。


食事の仕方、身のこなし、考え方、剣の腕――

すべてが、あの姫様を守るために育まれてきた。


それが異常だとも思わずに、ただ静かに受け入れている。

そのことが、少しだけ、胸を締めつけた。


ーーこの人を、幸せにしたい。


それは、突然、胸の奥から沸き上がった感情だった。


いつも、姫様のことばかりを考えている。

その想いに罪悪感を抱きながら、何かを押し殺すように、うつむく彼の顔。


そんな顔ばかり見てきた。


だけど、私は――


屈託のない笑顔を、見たい。


ただ一緒に並んでご飯を食べて、

「おいしいね」って、笑い合える関係になりたい。


そう、心から思った。


妾になってからというもの、

身体と引き換えに与えられるものばかりを手にしてきた。


贅沢な食事。ふかふかのベッド。美しいドレス。

それらを当然のように享受してきた。


けれど、今。


私は、誰かに何かを“与えたい”と思っている。


ーーシュリを、幸せにしたい。


そして、その隣にいるのが――自分がいい。


その想いが胸に広がっていくのを感じながら、

フィルはしがみついていた腕に、そっと力を込めた。


まるで、その願いがほどけてしまわぬように。


街道から逸れて、森の小道に入ったときだった。


「・・・静かすぎるわね」

フィルが不安げに呟いた。


春の午後、冷たい空気に包まれた小道。


小鳥の声もなく、風の音すらしない。


「近道とはいえ、少し開けた道を選んだ方がよかったかもしれません」

シュリが馬をゆっくりと進めながら答えた。


その時だった。


「・・・止まって」

シュリの声が低くなった。


彼の視線が、森の中――左手の茂みをとらえている。


ほんの一瞬の沈黙。


その直後、バサッ――!と音を立てて、何かが跳ねた。


空気が裂けるような音。


飛び散る鳥の羽。


斜面の向こうから、男たちの影が迫ってくる。


三人の兵たちが、斜面の陰から姿を現した。


ワスト領の兵だった。


ひとりは棍棒、ひとりは短剣、もうひとりは弓を手にしていた。


次回ーー明日の9時20分


「なんだ、領民かよ」

ワスト領の兵が馬上のふたりを見て吐き捨てた。


だが次の瞬間、視線はフィルへと注がれる。

「・・・上物だな」


裂ける布、走る羞恥と恐怖。

その前で、シュリの剣が陽を受けて静かに光った――。


⚫︎お知らせ


小説とは別に、執筆のことや日々の気づきを綴ったエッセイも書いています。

創作の裏側や、続ける苦しさと楽しさなどを素直にまとめています。


<小説は自分を映す鏡>作者が強情だから、ヒロインも強情?


https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/


気軽に読める内容なので、休憩のお供にどうぞ。



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