《見張り部屋》――死んだら許さない
ノルド城 見張り部屋
「シュリ・・・お願い」
ユウの声は、かすかに震えていた。
「ユウ様、どうなさいましたか?」
静かな声で返すシュリ。
だがその声には、何かを察したような気配があった。
ユウはまっすぐ彼の元へ歩み寄り、袖をぎゅっとつかむ。
「・・・行かないで。お願い、断って」
しばらく沈黙があった。
そして次の瞬間、涙声で叫ぶように――
「危険なの!あなたが行くなんて、嫌!!」
ユウの震える声が、薄暗い見張り部屋に響いた。
「・・・ユウ様。それは・・・できません。シリ様のご命令です」
シュリは、微笑すら浮かべるような穏やかな声で返す。
「だめよ・・・そんなの、だめ。私が母上に言うから。お願い、行かないで・・・お願いだから」
――姉上が、こんなふうに誰かに縋るなんて。
部屋の隅に身を潜めていたレイは、息を呑んだ。
誇り高く、いつも毅然としていた姉。
困難に直面したときには、必ず顎を少し上げて立ち向かっていた。
なのに今は、まるで――ただの、ひとりの少女のようだった。
「・・・申し訳ありません。私には、果たすべき務めがあります」
シュリはまっすぐにユウを見つめ、諭すように言う。
「嫌よ・・・嫌。お願い、行かないで・・・シュリ」
ユウは声を震わせ、まるで子どものように感情をぶつけた。
その頬には、一筋の涙が伝う。
「必ず、戻ってきます。約束します」
「・・・シュリも、父上のように・・・死んでしまう・・・!」
言った瞬間、ユウは唇を噛み、視線を逸らした。
「ユウ様・・・」
シュリの声が少しだけ揺れた。
「嫌よ・・・そんなの・・・」
涙を溜めたまま、ユウはキッと彼を見上げる。
ーーこんなユウは、自分だけが知っている。
シュリはユウの顔を、じっと見つめながら思う。
愛しくて、可愛い。
笑っている顔はもちろん、怒っている顔も、泣いた顔も・・・。
結局、自分はどんなユウでも、可愛らしいと思ってしまう。
そう、惚れた方が負けなのだ。
「・・・必ず戻ります」
困ったように眉を下げながら、シュリは静かに言う。
その言葉に、ユウは少しだけ俯き――やがて、再び彼を見上げた。
その目は、涙に濡れてなお、まっすぐで強かった。
「・・・シュリ」
かすれる声で名を呼ぶ。
その声音に、幼いころからずっと自分を見てくれた茶色の瞳が揺れる。
ーーもうすぐ、この城は落ちる。
大切な人に、二度と会えなくなるかもしれない。
身分の差なんて、どうでもいい。
この人が明日、死んでしまうかもしれないのなら――。
彼女の白い指が、そっと袖をつまんだ。
引かれるように、顔が近づく。
・・・あと数センチ。
・・・息が触れ合う距離。
そして――
袖を引かれ、前のめりになった彼とユウ。
気づけば――二人の唇が、そっと触れ合っていた。
「・・・!」
シュリは、驚いたまま動けなかった。
唇を受け止めたまま、目を見開いていた。
ただそこにあるのは、震えるほど柔らかな感触。
心臓が音を立て、全身が熱を帯びていく。
目の前には、涙に濡れた睫毛のユウがいる。
衝動的に、彼女を抱きしめたくなった。
だが伸ばしかけた腕は、宙をさまよった末、静かに引っ込められる。
――この腕で抱きしめてはいけない。
それは、分かっている。
けれど、心だけはもう、どうにもならなかった。
濡れたまつ毛に縁取られた瞼が、ゆっくりと開いていく。
息を呑むほど美しい――ユウの瞳が、すぐ目の前にあった。
その青い瞳が、迷いも逃げ場も与えぬほど強く、シュリを射抜くように見つめていた。
そして、わずかに唇を離し、ユウは低くつぶやいた。
「・・・死んだら、許さない」
その言葉は震えるほど真っ直ぐで、愛しさと恐れが混じっていた。
「・・・わかっています」
シュリは、かすれる声で答える。
目が合ったまま、ふたりはもう止まれなかった。
どちらからともなく、腕が伸びる。
次の瞬間には、互いの体を強く抱きしめ、唇が重なった。
逃すものかと、シュリはユウの腰を引き寄せる。
ユウもまた、力強く彼を求めていた。
唇の奥へ、そっと舌を滑らせると、ユウが一瞬、小さく息を呑んだ。
だが拒まなかった。
むしろ、震えながらも受け入れ、さらに深く求め返すように、身を預けてくる。
焦がれるような熱と、切なさが混じりあい、二人の口づけは長く、深く、ほどけていく。
――まるで、もう二度と離れられなくなるように。
部屋の隅では、レイが息を呑んだまま固まっていた。
あまりの情熱に、言葉も出ない。
それほどまでに、二人は情熱的だった。
しんと静まり返った部屋に、残るのは二人の微かな息遣いだけだった。
それすらも、どこか名残惜しく聞こえる。
ーーこのまま、二人がこれ以上先に進んだら・・・どうしよう。
心の中でそうつぶやいた時、静寂の中に足音が響いた。
遠くの階段を、複数の人物が上ってくる。
ユウとシュリは、弾かれたように身を離す。
心臓が、まだ互いの距離を覚えていた。
しばらくして、隣室から侍女たちが荷物を運び込む気配が伝わってくる。
「・・・すみません」
思わず、シュリが低く呟いた。
ユウは何も答えず、ただその顔をじっと見つめ返してくる。
「そろそろ・・・シリ様の部屋へ行かなくては」
名残惜しそうにそう告げるシュリに、ユウは無言のまま、ゆっくりと頷いた。
「必ず、帰ってきます」
安心させるような声音で、シュリが言う。
「・・・わかったわ」
ユウの返事は、少し拗ねたように聞こえた。
けれどその瞳には、先ほどの熱がまだ宿っていた。
――もう一度、触れたかった。
――そのぬくもりを、この腕で確かめたかった。
けれど、ユウはその想いを奥底に押し込んだ。
「部屋に・・・戻りましょう」
シュリの目元は、わずかに赤く滲んでいた。
二人は静かに部屋を後にする。
やがて足音が遠ざかっていくと同時に、見張り部屋に再び静寂が戻った。
その瞬間。
「・・・はぁーっ」
レイが、耐えていた息を思わず吐き出した。
気がつけば、あまりに息を殺していたせいで、足元から力が抜けていた。
――とんでもない秘密を、また一つ知ってしまった。
あの姉上の顔を、誰かに語るなんてできない。
・・・姉上は、私たち姉妹の中で、誰よりも母に似ている。
けれど、どこか・・・違う。
レイは胸の奥に、小さな確信のようなものを抱えた。
でもそれは、誰にも言ってはいけないことだと、本能的にわかっていた。
・・・私の胸だけに、しまっておく。
震えるように立ち上がると、レイは小窓の外を見上げた。
朱から藍へと変わった空には、細く白い月が昇っている。
ーー明日・・・妾は、この城を出ていく。
波乱に満ちた一日は、静かに、けれど確かに幕を下ろした。
次回ーー本日の20時20分
別れの夜明け、妾たちは城を去り、フィルはシュリと共に闇へ消えていく。
抱きしめる腕に託されたシリの想いは、母のように深く切ない。
残されたユウの胸には、嫉妬と祈りがせめぎ合う。
――春の風だけが、すべてを知っていた。
「私は、あなたを支えたかった」




