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報われぬ恋を、誰よりも知っている

シリは一息つくと、静かに切り出した。


「シュリ、フィルを生家まで送り届けてほしいの」


名を呼ばれたシュリは、すぐに表情を引き締める。


「・・・生家、ですか」


「ええ。この城が敵に包囲されれば、妾たちに命の保証はないの。

フィルの身に危険が及ぶ前に、彼女を外へ逃がさなくてはならないの」


そう言って、シリは地図を広げた。


「ここがフィルの家。城を出て南東へ。けれど、戦火を避けるには大きく遠回りしなければならない」


地図を覗き込んだユウが、顔色を変える。


「・・・母上。ここは危険地帯です。戦が激しいと噂されている場所ではありませんか。

そんなところへ、シュリを行かせるのですか?」


「ええ。危険な場所よ」


シリは目を伏せた。


けれど、その声音には迷いはなかった。


横でそのやりとりを見ていたウイには、状況がすぐには飲み込めなかった。

地図を見ても、どこが戦場なのか判断がつかない。


だが――母の表情、姉の硬直した顔、張り詰める空気がすべてを語っていた。


ーーシュリは、危険な任務を命じられたのだと。


「フィルは乗馬の経験がないの。

彼女を馬に乗せて、敵の目を避けて逃すには・・・この城でできるのは、あなただけ」


シリは、まっすぐにシュリを見つめて言った。


「でも・・・妾を逃がすために、そんな危険を・・・」


ユウが口をつぐむ。


けれど、その言葉の続きを、ウイは理解していた。


ーー妾のために、シュリが命を賭けるの?


その沈黙に、シリは静かに答える。


「妾も、家族です。・・・この城を託された妃として、ゴロクが選んだ者の命を見捨てるわけにはいかないわ」


言い切った母の言葉は、静かでありながら強い決意に満ちていた。


「この城には、もう十分な兵は残っていません。

送り届けるには、剣の腕も覚悟もある者でなければならない。

シュリ、あなただけが頼りなの」


ユウは、じっとシュリを見つめる。


その瞳には、哀願にも似た色が宿っていた。


――『行かないで』『引き受けないで』と、叫ぶように。


ユウは、ほんの一瞬だけ、シュリの腕を掴みかけて、その手をそっと引っ込めた。


けれど、シュリはただ一度、ユウに視線を送り、すぐにシリをまっすぐに見返した。


「承知しました」


深く頭を下げるその姿に、誰も言葉を返せなかった。


「今夜、私とハンスで打ち合わせをしましょう」


そう言って、シリはシュリにだけ視線を送る。


そして、三姉妹を見渡し、微笑んだ。


「今日は・・・しっかり休んで。明日に向けて、備えましょう」


淡い笑みを浮かべながら、シリはエマとともに部屋を出て行った。


扉が閉まると同時に、部屋の空気は静まり返った。


残された三姉妹は、言葉を失っていた。


「信じられないわ・・・」


ウイがぽつりとつぶやき、両手を重ねて自分の震えを押し殺す。


その目が、慰めを求めるようにユウを見上げる。


だが――そのユウも、蒼ざめた顔のまま、黙って立ち尽くしていた。


「ウイ様、荷物の準備を始めましょう」


乳母のモナカが、そっと声をかける。


「・・・そう、ね」


小さく頷いたウイは、姉の沈黙にため息をついた。


ーー姉上も、余裕がないのね。


レイはそっと立ち上がり、何も言わず部屋を抜け出していった。


残ったのは――ユウとシュリ、そしてヨシノだけ。


「ヨシノ。荷物の支度は、あなたに任せるわ」


ユウが静かに言うと、ヨシノは無言で頷いて席を立った。


そして。


「シュリ・・・ちょっと、いいかしら」


ユウがようやく振り返り、シュリの名を呼んだ。


その声はかすかに震えていた――けれど、目は真っ直ぐに彼を見つめていた。



◇ ノルド城 見張り部屋


ーー少し後、


ノルド城の最上階にある見張り部屋。


今では物置と化し、誰にも顧みられなくなったその空間に、レイはひとり膝を抱えて座っていた。


目線の先には、小さな窓――そこからは、太陽が山の稜線に沈もうとする光景が広がっている。


西の空が朱に染まり、強い陽光が最後の力を振り絞るように空を焦がしていた。


レイはその静けさに、ひとつ小さく息を吐いた。


姫として日々を過ごす中で、常に侍女や乳母に囲まれるのが当たり前だった。


だが時には、誰にも話しかけられず、一人になりたかった。


この城に来てから、その願いを叶えられる場所が、ここだと知った。


彼女はそれ以来、心がざわつくときには、ひっそりとこの場所を訪れるようになっていた。


先ほど、母から知らされた衝撃の知らせが、まだ胸の中でくすぶっていた。


――この城が、落ちる。


「落城」という言葉は、どこか遠い物語の中だけのことだと思っていた。


でも、姉のユウが声を荒らげ、

ウイが泣きそうな顔で震えていたのを見て、これは現実なのだと知った。


ーー自分たちは、敵の元へ送られる。キヨの元へ。


未来が霧に包まれていくようで、ため息がまたひとつ、こぼれる。


この見張り部屋で、レイは何度か――姉とシュリの姿を、偶然見ていた。


誰にも見られないようにと訪れたはずのこの場所で、

二人が静かに言葉を交わしていたのを。


あの日は、姉が泣き叫んでいた。


何に怒り、何に傷ついたのかまではわからなかったが、シュリはそんな姉をしっかりと抱きしめていた。


そのときの姉の顔は、見たことのないほど切なかった。


姉は気づいていなかった。


けれど、レイの目にはしっかり映っていた。


シュリが、姉の髪にそっと口づけをしていたことも。


――この二人は、想い合っている。


けれど、それをあえて口にはしない。


姫と乳母子。


決して結ばれることのない身分。


それでも、そばにいたいと願う心が、二人のまなざしにあふれていた。


レイは、そんな二人を、ずっと黙って見守っていた。


誰にも話さず、胸の奥にしまったまま。


だから、今日のように母が何か“命を下す”とき、


――きっと、二人の間に何かが動くはずだと、レイは思っていた。



そのとき。


階段をのぼる足音が聞こえた。


一つは軽やかで小さな音。


もう一つは、規則正しく重みを帯びた音。


レイはそっと目を細め、つぶやいた。


「・・・やっぱり、来たのね」


そして静かに、大きな木箱の影に身を潜める。


やがて、扉がゆっくりと開いた。


部屋に入ってきたのは、姉のユウだった。


輝く金の髪に、涼やかな青い瞳。


薄明かりの中でも目を惹くその姿は、

こんな埃っぽい部屋には不釣り合いなほど美しかった。


その後ろから続いたのは、あの使用人――乳母子のシュリ。


ユウのすぐ後ろを、まっすぐな足取りで歩いてくる。




次回ーー明日の9時20分


ユウの必死の願いと、シュリの揺るがぬ覚悟。

涙が、唇が、二人の想いを隠しきれなくしていく。

その情熱を、見張り部屋の片隅でレイは見ていた。

――秘密は、決して誰にも語れないまま胸に刻まれる。


「見張り部屋 〜死んだら許さない〜」

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