あなたたちは、生き延びなさい
空は茜に染まり、まるで別れを告げるようだった。
ノルド城西棟。
かつて賑わいを見せた妾たちの部屋は、今は静寂に包まれている。
「逃げろと言われても・・・それは、この場所を捨てるということですのよ」
ドーラの声は震えていた。
「準備はすでに整えました」
シリは穏やかに、けれどどこか遠い声で言った。
「ドーラ、プリシア。私は前から、あなたたちの生家と連絡を取っていました」
「え・・・?」
「いつからですか?」
驚きの声を上げる二人に、シリはため息をついた。
「ゴロクの軍が劣勢に転じた頃から。最悪の事態にならぬよう祈りつつ・・・けれど、備えは必要でした」
そう言って、懐から手紙を取り出す。
「これは、出陣前にゴロクに書かせたもの。
あなたたちのための推薦状よ。生家に戻っても困らないように」
手渡された手紙を見つめたまま、ドーラの目に涙がにじんだ。
ーーこんな細やかな心遣い。
これがゴロクひとりの発想であるはずもない。
妾という立場の者に、ここまでの手配をするなどあり得ない。
これは、間違いなくこの妃の思いだ。
「・・・私たちのために、ありがとうございます」
プリシアも頭を下げた。
「あなたたちの生家は戦地と逆方向。
馬車を一台手配しました。従者は一人。明日の夜明け前に出立してください」
シリは力強く頷く。
そして、フィルの方を振り返った。
「フィル」
領民出身の彼女に、生家との連絡は取れない。
「あなたの生家は戦場の反対側。・・・戻るには敵地を越えなければならない」
「・・・それなら、戻らなくていい」
フィルは首を振る。
平静を保とうとしていたが、その顔はどこか幼く、脆さを帯びていた。
「どうせ・・・あの家には、私の居場所なんて、最初からなかった」
その言葉が、シリの胸に突き刺さる。
ーーもしゴロクが勝っていたなら、フィルをそばに置き、
学問や礼儀を学ばせ、次代の女たちの育成を担わせようと考えていた。
だが、もうその未来はない。
「フィル、私はあなたを守りたい」
シリは手を握りしめた。
「ここに残れば、敵兵に襲われるかもしれない。私は・・・あなたを助けられない」
声がわずかに震える。
「ましてや・・・もし妊娠でもすれば・・・あなたの人生は、奪われる」
フィルは目を伏せ、唇を噛んだ。
「生きて。あなたは若く、美しい。生き延びれば、いつか必ず光を見つけられる」
その眼差しは、母のように温かく、深く、揺るぎなかった。
「私なんて・・・どうせ」
フィルが目を伏せる。
「あなたが幸せになったと聞けたら、どんなに救われるか」
シリはフィルの目を見つめた。
その目で見つめられると逆らえない。
ーー本気で私のことを心配してくれている。
その想いが・・・何よりも嬉しかった。
「・・・でも、馬車は危険よ。目立つ。馬を用意するわ・・・手配しておく」
「・・・はい」
フィルは小さく、でもはっきりと頷いた。
「服も、目立たぬように整えました。エマ」
「はい、こちらに」
すでに用意されていた包みを、エマが差し出す。
「お邪魔しました。まだ・・・仕事があるので」
シリが立ち上がる。
その背筋は真っすぐで、まるで決戦に向かう騎士のようだった。
その背を見送りながら、ドーラが叫ぶ。
「シリ様!」
扉に手をかけたシリが振り返る。
「シリ様と・・・姫様方は、どうなさるのですか?」
それは、最初からずっと気がかりだった問いだった。
あの瞳の奥に見える覚悟が、どうしようもなく不安だった。
「――あの子たちの命を守るため、私はこの城に残ります」
揺るぎのない瞳でそう言ったシリに、ドーラは息を呑む。
「そう・・・ですね」
覚悟の重さを、ようやく理解したようにうなずき、そして、絞るように問うた。
「では・・・シリ様は?」
ーー妃と姫の命は守られる。
そんなことは知っている。
でも、質問せずにいられなかった。
「私?」
シリは微笑んだ。
その笑みは、どこまでも優しく、そして決して近づけないものだった。
「私は、妃としての任をまっとうします。この城を、最後まで守るために」
そう言い残して、部屋から出て行った。
廊下を進むシリの背を、エマがほとんど駆け足で追いかけた。
「これから・・・姫様方のところへ?」
「ええ。あの子たちにも、話さないといけないわ」
シリの声には、微かな迷いと覚悟が混じっていた。
城を包む夕暮れの静けさの中で、二人の足音だけが石畳に響く。
――残された時間は、もう、そう長くはない。
次回ーー明日の9時20分
夕焼けに染まる三姉妹の部屋。
母は「怖い」と告白しながらも、妃として毅然と立つ姿を見せた。
「準備を進めて」――そう告げたシリは、静かにシュリを呼ぶ。
「あなたに頼みたいことがあるの」
その言葉の先に、運命を変える決断が待っていた。
「怖くても生きる」
◎小説裏話エッセイかきました。
昨日、この連載の最終話を書きました。
「10ヶ月110万文字、完結しました。誰も止めてくれなかた」
https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/
誰にも頼まれてないのに書き続けた雨日の執念と老化と情緒不安定の記録。




