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この城は落ちます──妾たちへの最後の命令

◇ ノルド城 シリの執務室


敗戦の知らせが届いても、シリは落ち着いているように見えた。


「ハンス、ゴロクはいつ頃、この城に戻ると思う?」


「・・・あの戦地からなら、順調でも四日ほど。

ですが、敵が追っているはずです。ゴロク様が無事に帰還できるかどうかは・・・」


「・・・そう・・・ね」


このとき、初めてシリの声にわずかな震えが混ざった。


目を伏せ、ゆっくりと瞼を閉じてから、静かに開ける。


その瞳は強かったが、その奥には確かな揺らぎがあった。


「ハンス」


声が戻る。


背筋を伸ばしたシリは、明確な口調で言った。


「城内の男性たちには、守備を固めるよう伝えて。それと・・・馬車を一台と、従者、馬を用意して」


「・・・承知しました」


ハンスはすぐに頭を下げ、その場を去った。


「エマ」


呼ばれた老女は、すぐに応じる。


「はい。姫様たちを、お呼びしましょうか?」


「いいえ。あの子たちの乳母を・・・呼んで」


「・・・えっ」


小さく息を呑んだあと、エマは静かにうなずいた。


「承知いたしました」


「できるだけ早く。・・・シュリは呼ばなくていいわ」


窓の外に目をやりながら、シリはぽつりと言った。


「・・・はい」


エマはその表情にただならぬ気配を感じ取り、顔を強張らせたまま部屋を出た。


やがて、三人の乳母が部屋に入ってくる。


ユウの乳母・ヨシノが、一歩前に出て恭しく頭を下げた。


「お呼びでしょうか」


「単刀直入に言います。シズル領は、敗れました。

あと四日ほどで、この城に敵が迫ってきます。今のうちに、逃げられるよう荷をまとめてください」


その言葉に、乳母たちは一斉に息を呑む。


「負けた・・・?」


「この城に、敵が・・・?」


「・・・なんと・・・」


「姫たちには、あとで私が話します。それまでは内密に」


その場が静まり返るなか、ヨシノが口を開こうとして、しかし何も言えず、静かに頭を下げた。


「・・・承知しました」


三人の乳母が退出した後、シリはエマに振り向くことなく言った。


「これから、ドーラたちの部屋へ行ってきます」


その声には、かすかに張りつめた音が混ざっていた。


「なぜ・・・姫様方より妾の方々を優先なさるのですか」


石畳を踏みしめる足音が響く。


エマは急ぎ足でシリの背を追いながら、息を切らせて問いかけた。


「・・・あの子たちより、ドーラたちの方が命の危険が高いのよ」


シリの声は低く、だが強かった。


エマの目が見開かれる。


「・・・そうなのですか」


その一言が震えていた。


西側の棟に差しかかり、シリは躊躇なく扉を拳で叩いた。


乾いた音が廊下に響く。


まるで警鐘のように。


ややあって、扉が開く。


プリシアが目を丸くして立っていた。


「シリ様・・・どうか、なさいましたか?」


戸惑いが滲んだ声。


その背後で、ドーラが驚いたように立ち上がる。


「シリ・・・様?」


フィルは、ちらとシリを見て、何も言わず窓の外に視線を逸らした。


シリは一歩、部屋に足を踏み入れる。


「話があるの」


その声は、静かだが決して拒めない強さを帯びていた。


「シリ様・・・どうぞ」


ドーラが椅子を差し出した。


夕陽が部屋を茜に染めている。


この時間にわざわざ“話がある”など、ただごとではないと、三人は直感していた。


妾たちが席に着くのを待ち、シリはまっすぐに顔を上げて告げた。


「・・・シズル領は、敗れました。

 四日もしないうちに、敵がこの城を包囲するでしょう」


一瞬、誰もが言葉を失った。

やがて、口々に声が上がる。


「・・・そんな!」


「ゴロク様が・・・?」


フィルもプリシアも、動揺を隠せなかった。


ドーラだけが、かろうじて冷静を保ち、問い返す。


「シリ様・・・。

 ゴロク様はこれまでも何度か争いに敗れております。

 それでも、城を包囲されるような大敗は――」


その言葉に、シリは静かに首を振った。


「もう・・・ゴロクを守る“兄”はいないのです」


「・・・どういう、ことですか」


「これまでは、兄ゼンシがいたからこそ、

ゴロクはどれほどの失敗をしても、命を守られてきました」


言葉の一つ一つに重みがある。


「けれど、今は違う。

 後ろ盾を失った彼は、もはや“誰の庇護”も受けられない。

 だからこの城は――落ちます」


短く言い切ったその声に、抗う隙はなかった。


「・・・ゴロクも、きっと覚悟しているはずです」


誰も、何も言えなかった。


息を呑む音だけが、部屋に落ちた。


「そんな・・・」


ドーラは声を失ったまま、肩を震わせる。


「争いに負けたのなら・・・負傷兵も多いはず」


フィルがぽつりと呟いた。


窓の外には、淡く茜がかった空が広がっている。


静寂のなかで、ドーラがふいに顔を上げた。


その瞳には迷いの色はなかった。


「シリ様、私たちも・・・城を守るためにお手伝いをします」


その言葉には、ただの気遣いではない、決意が宿っていた。


隣でプリシアも、目を伏せるようにしてから、ゆっくりと強く頷く。


「・・・ありがとう」


シリは一瞬、言葉に詰まり、それでも穏やかに微笑んだ。


「あなたたちがいてくれて、本当に心強いわ」


その笑みに、ドーラはぴしりと背筋を伸ばして答える。


「とんでもないです」


そして、まっすぐにシリの瞳を見つめ返した。


「・・・気持ちは嬉しいわ。でも、それは――ダメ」


シリの声は静かだった。


けれど、その瞳には確かな力が宿っていた。


「あなたたちには・・・この城を、離れてほしいの」


「シリ様・・・どうして・・・?」


ドーラが苦しげに問いかける。

絞り出すような声だった。


ーー役に立てると思っていた。

自分の働きを、この妃は認めてくれていた。

こんなふうに、誰かに必要とされたことなど、一度もなかったのに。


「ここに来た時・・・誰も私の名前を呼んでくれなかったわ。

でも、妃様は違った。私を、ちゃんとフィルと呼んでくれた。なのに・・・」

フィルは涙をこらえ、唇を噛んだ。


「手伝いたいのよ。私も」

フィルの声には焦りと切実さが滲む。


「どうして・・・?」


プリシアは、小さく震える手を、スカートの裾で必死に隠していた。

「私たちは・・・力不足ですか? 役に立ちたいです」


三人の声は必死だった。


それでも、シリは顔色ひとつ変えずに答えた。


「――敗北しても、“妃”や“姫”は、死なないわ。

 侍女たちにも、ある程度の尊厳は保たれる。

 けれど・・・“妾”は、違う」


その声が、わずかに揺れた。


「敵にとって、妾は“女”としての価値しかないのよ。

 慰み者になることもある。それどころか、殺された例もあるの・・・」


沈黙が落ちた。


「私の亡き夫の・・・友人の領主が亡くなった時。

 彼の城に残った妾たちは・・・皆、殺されたわ」


シリは目を伏せた。


亡き夫の友人 トナカの妻は井戸に身を投げ、

妾は兄の命で殺された。


「・・・あのとき、私は何もできなかった。助けたかった。妃も、妾も・・・」


シリはほんの一瞬だけ目を伏せ、静かに続けた。


「だから今度こそ、あなたたちには生き延びてほしい」


ドーラが、息を呑んだ。


「あなたたちは若い。

 未来があるの。 逃げて――生き延びるのよ」


少しだけ微笑んで、シリは最後に言った。


「・・・あなたたちは、私の誇りよ」


そう告げたシリの瞳には、涙ではなく、鋼のような光が宿っていた。


外からは、風の音すら止んだようだった。

誰もが、何かを決めかねて、ただ黙っていた。


ブックマークをありがとうございます!

1日で新しく登録していただけて、本当に嬉しくて胸がいっぱいです。


長い連載に興味を持っていただけること、そしてずっと応援してくださっている皆さまの存在に、心から感謝しています。


物語はすでに最終回まで書き上げています。

これからシリには様々な出来事が待ち受けていますが――

どうか最後まで、シリを見守り、応援していただければ幸いです。


次回ーー本日の20時20分


敗戦の報せに、シリは妾たちへ逃亡の支度を命じた。

「生き延びてほしい」――その願いは、涙よりも鋭かった。

彼女自身は城に残り、妃として最後まで戦う覚悟を示す。

茜の空の下、別れの刻が静かに迫っていた。


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