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ごめん、俺は弱かった

 ◇ 戦地にて


冷たいものが頬を伝った。


それが血か、泥か、涙なのかーーわからなかった。


意識の底からゆっくりと這い上がるように、リオウは目を開けた。


視界はぼやけていた。


仰向けになったまま、空が見える。


どこまでも曇っていて、雪と煙の匂いが混ざる。


ーー痛む。背中が、灼けつくように痛い。


「・・・う、ぐ・・・」


呻いた瞬間、肺の奥に冷たい空気が流れ込み、咳き込んだ。


その音に気づいたのか、誰かの足音が近づく。


「生きてるぞ! 一人、生き残りが!」


ーー誰だ。味方か、敵か。


視線を動かした。


ぼやけた中に、槍の穂先が見えた。


金属音とともに、何かが投げ捨てられる。


「武器はない。背中を斬られて動けねぇようだ」


――やられたのか。あの時。


記憶が遡る。


怒号。雪の中、崩れる味方の陣。


振り向きざまに背中を走った閃光の痛み。


そして、すべてが真っ白になった。


「この男、どこの軍だ?」


「シズルだ」


答えた声に、どこかぞっとするような笑いが混ざる。


 「よし、首を刎ねよう。これで105体目だ。褒美が増すな」


ーー首・・・?


動かない身体をなんとか起こそうとするが、背中が痛み、視界が再びぐらつく。


何かに縛られている。


両腕が後ろ手に縛られ、膝をつかされた。


首元に、冷たい鉄の感触。


──終わるのか。



心臓の鼓動が、耳の奥で脈打った。


剣が振り上げられる音が聞こえる。



その瞬間だった。


「待て」


静かな声が、戦場のざわめきに溶けるように響いた。


その声に、周囲の兵たちが次々とひざまずく音が、リオウの耳に届く。


「サム様。生き残りが・・・おりました」


兵のひとりが報告する。


現れたのは、白髪交じりの髪に重みのある装い、そして威厳を湛えた男――ワスト領の重臣、サムその人だった。


血に濡れた顔のまま、リオウはゆっくりとその男を見上げる。


サムの目が、リオウの左肩に止まった。


「・・・その紋章は」


肩に縫われた刺繍。


ウイが縫った、コク家の紋章だった。


「名を」


サムが低く問う。


「リオウ・・・コク」


震える声で名乗った。


その名に、サムの目が静かに揺れる。


「コク家・・・」


「サム様、ご存知ですか?」と

兵の一人が問う。


「・・・コク家は、前領主グユウ様の親戚筋に当たる」


別の声が挟まる。


「チャーリー、見てみろ。面影があるだろう・・・グユウ様の」


サムの言葉に、チャーリーと呼ばれた男が目を細めてうなずく。


「・・・本当だ」


だがそのやりとりに割って入るように、若い兵が声を上げた。


「首を切っても?」


興奮のあまり我慢できなかったのか、その声は鋭く空気を裂いた。


サムは静かに、そして確かに言った。


「・・・ダメだ。この青年は、コク家の長男だ」


「それが・・・?」


兵は理解できないというように首を傾げた。


ーーなぜ、この場で殺さぬのか。


「この青年は、キヨ様の妾――メアリー様の弟だ」


サムの声に、空気が変わる。


「・・・勝手に首を刎ねたら、お前の首が飛ぶぞ」


「はっ・・・!」


兵は慌てて刀を引き、後ずさる。


「大丈夫か?」


チャーリーがリオウの後ろ手に縛られていた縄をほどく。


「傷の手当を・・・」


リオウの背に走る痛み。


だが、それ以上に胸を衝いたのは、今しがた知った事実だった。


ーー姉が、妾の縁で助かった。


なんとも言えない思いが胸に広がる。


そのまま、リオウは再び、崩れるように倒れ込んだ。


 意識が遠のいていくなか、ユウの顔が一瞬、脳裏に浮かぶ。


続いて、母の顔、そして、笑顔のウイ。


ーーごめん。俺は・・・弱かった。


そう呟いた唇には、もう声すら乗っていなかった。


◇ ノルド城 シリの部屋


春の光がガラス越しに差し込む。


シリは終わらない領務にため息をつきながら窓の外を見つめた。

どこか穏やかな夕方だった。


「シリ様、お疲れでしょう。お茶を淹れます」

エマが優しく声をかける。


「お願いできる?」


しかし、その静けさは突如として破られた。


「シリ様――! 伝令でございます!」


足音を乱して駆け込んできたのは、老臣ハンスだった。


その顔には、明らかな焦りの色が滲んでいた。


シリは振り返ることもなく、静かに手にしていたペンを置いた。


「・・・何があったのですか」

声は驚くほど穏やかだった。


だが、張りつめた細い声の奥には、すでに察していた者の覚悟があった。


部屋に入った使者は深く頭を垂れ、震える声で告げた。


「本陣、攻め落とされました。ゴロク様は、後退を決断なされ・・・」



そこまで聞いた瞬間、彼女の背筋がわずかに揺れた。

目を伏せ、呼吸を整える。


ーー負けた。


「そう・・・ですか」


言葉を搾り出すように、小さく頷いた。


エマとハンスが息を呑む。


シリははそっと立ち上がる。


「やることがたくさんありますね」


静かに話した。

次回ーー明日の9時20分


敗戦の報せに、シリは乳母と妾たちを呼び寄せた。

「生き延びてほしい」――その願いは切実で、残酷だった。

別れの刻が、静かに迫っていた。


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