裏切りではなく、選べなかった
◇領境 ノアの陣
北砦のノアの陣は、慌ただしく出陣の準備を始めていた。
ゴロクからの出陣要請が来たのだ。
キヨの軍に対して、横から攻めるように指令が来た。
――キヨとの争いは、気が進まない。
あの男に、槍を向ける日が来るなど、かつては思いもしなかった。
それでもーー
ノアは槍を手に出陣しようとしていた。
その時だった。
「ノア様 使者がまいりました」
陣の外で控えていた家臣が、声を潜めて告げた。
「誰だ?」
「・・・キヨ様の使者です」
一瞬、時が止まった。手紙ではなく使者。
大事な知らせに違いない。
キヨーー昔からの悪友。
ゼンシのもとで共に馬を駆け、槍を振るい、無茶もした。
だが今は、敵。
「通せ」
外の風が止まったような気がした。
帳がゆっくり開かれる。
現れたのは、涼やかな黒い瞳を持つ青年だった。
伏し目がちな眼差しの奥には、静かな知略が宿っている。
名を、イーライ・ショウ。
キヨの側近として知られる人物だ。
その背には、主の影と意志が、確かに重なっていた。
彼は懐から手紙を取り出し、無言で差し出した。
『お前とわしは、ゼンシ様の下で血を流した戦友だ。
ノア、お前に刀を向けたくない。
動かぬこと。それだけで良い』
ノアを息を呑む。
――あの頃のキヨは、無鉄砲で、だが不思議と人を惹きつける男だった。
馬で駆けたあの山道のことが、今も忘れられない。
そんなノアの姿をイーライは、何も言わずにじっと見つめる。
その眼差しは、そんな言葉よりも強く人を訴えるものがあった。
ノアはそっと手紙を置く。
そして、その場に崩れるように座り込んだ。
その様子を見届けると、イーライは深く一礼する。
――任務は、完了した。
「失礼します」
静かに帳をくぐり、彼は陣を去っていった。
入れ替わるように、マリーが中に駆け込んでくる。
「大丈夫?」
ノアのそばへと、すぐに膝をついた。
ノアの槍を握る手が震えていた。
ーー忠義か、友情か。
「・・・どちらも選べないんだ」
ノアの叫びは、喉の奥から絞り出された悲鳴だった。
どちらを選んでも、心の半分が千切れてしまう。そんな気がした。
「無理だ・・・!選べない!!」
上をむいて絶叫する。
「あなた・・・」
マリーは立ちすくんだ。
「出陣は・・・取りやめだ」
その声を聞いた家臣たちは、そっとうなずいた。
――そして翌日、ノア軍は戦場に現れることはなかった。
その行動が、ゴロクの軍に亀裂を生んだことを、誰よりもノアが知っていた。
だがそれでも、彼は剣を抜かなかった。
それは裏切りではなく、友情への返答だった。
◇ ゴロクの陣
山風が、残雪をかき乱すように吹き抜けていた。
ゴロクは陣の奥で、地図に目を落としていた。
砦ごとの布陣、兵数、補給路。すべては計算され、整っている――はずだった。
その静けさを破るように、陣外から駆け込んできた足音。
荒く、乱れていた。
「・・・何事だ」
声を低く落としたゴロクに、使者は膝をついた。
「ノア殿が、陣から出ません」
一瞬、時間が止まったようだった。
風の音が消えた。
地図の上に置かれた指が、ぴくりとも動かない。
「本当か?」
「はい、再三の出陣要請がしているのに一歩も砦から出ません」
「・・・その報告は本当か」
「はい。ワスト領の使者も陣におりました・・・」
使者の声が途中で詰まった。
「ノア殿は・・・キヨとも繋がっているようです」
その言葉が陣内に落ちた瞬間、まるで一斉に息を飲んだかのように、家臣たちは凍りついた。
「ば、馬鹿な・・・あのノアが!?」
ジャックが叫ぶ。
「ありえない。あの方は、ゴロク様と共に昔から・・・」
「本当か・・・」
マナトはその声は黙って聞いていた。
ーーやはり。
もっとノア殿の話を聞いておけば良かった。
ざわつく声が漏れ始めた。
が、それを制するように、ゴロクが静かに片手を上げた。
「静まれ」
その一言で、すべての声が止まった。
だが沈黙のなかにあったのは、信じた者の裏切りに対する、抑えきれぬ動揺だった。
ノアは、ただの武将ではなかった。
ゴロクにとって“背中を預けられる数少ない戦友”だった。
その離反は、戦力の喪失にとどまらない。精神の支柱の崩壊に等しかった。
若い家臣のひとりが、言葉を震わせて口にした。
「・・・ゴロク様、我らは、どうすれば」
ゴロクは彼に目を向け、短く答えた。
「前に出る」
それは、揺らぎのない命だった。
「ノアが去った穴など、わしが埋める。お前たちは・・・わしを信じろ」
その瞬間、誰かが小さく喉を鳴らした。
そしてひとり、またひとりと、家臣たちは膝をつき、勝家に頭を下げた。
「はっ・・・!」
「我ら、ゴロク様の兵にございます・・・!」
「精一杯働きます」
まるで言い聞かせるように、彼らは言葉を重ねた。
内心では、ノアの不在に不安を感じていた。
だが、ゴロクという“柱”がまだここにある限り、折れるわけにはいかなかった。
動揺が忠誠へと昇華されたその場に、ゴロクはひとつ、目を細めた。
「・・・よい」
そして再び、地図の上に視線を落とす。
家臣たちはそれぞれ、
槍を磨き、武具を整え、己の動揺を鎧の奥に封じ込めるように立ち上がっていった。
ゴロクの瞳は、変わらず深く澄んでいた。
裏切りに動じることなく、進むべき道を見据えていた。
だがその背に、かすかな影が宿っていたことに、家臣たちはまだ気づいていなかった。
ゴロクは、初めて“負け”という言葉の影を、心に落としたのだった。
勝利を信じて疑わなかったはずの地図が、一瞬、にじんで見えた。
◇ ノルド城 シリの部屋
「こうして、待っている時間は・・・辛いものね」
苦笑いを浮かべながら、シリは老臣ハンスと侍女エマに声をかけた。
シズル領が不利な状況にある――そんな報せが届いたのは、ほんの数時間前のこと。
それからというもの、雑務に追われるふりをしながらも、シリの胸はどこか宙を漂っていた。
ーー戦況は、どうなっているのだろう。
窓から差し込む春の光は、あまりにも穏やかで、
まるでこの世に戦など存在しないかのようだった。
けれど、夕焼けが城壁を茜に染めたその時――
城内に響いた一報が、その静けさを鋭く裂いた。
「ノア殿が・・・キヨ方に通じたとの報が入りました」
シリの手から、書類が音もなく滑り落ちた。
しん、と空気が凍りつく。
エマが慌てて拾おうとしたのを、シリはそっと手で制した。
「・・・ノアが、ですか」
低く、かすれるような声だった。
だが、その奥に湧き上がる感情は、誰の目にも明らかだった。
「嘘・・・ですよね」
エマが震えた声で呟く。
「砦から一歩も外に出ておらず、前線では混乱が広がっているようです」
ハンスの報告は静かだったが、その緊張の色は隠しきれなかった。
その後、辛そうに口を開いた。
「ノアはキヨ様とも仲が良かった」
ーーまたあの男。
シリの瞼の裏には痩せて目だけがギョロギョロしているキヨの姿が浮かんだ。
9年前の争いの時も、キヨの周到な策で夫は敗れ死んだ。
シリは立ち上がり、中庭を見た。
雪の名残の中、小さく咲いた白い花が、かすかな風に揺れている。
――グユウさんと、こうして春の花を眺めた。
ノアが裏切るなんて。
ゴロクとともに、あれほど忠義を尽くしてきた男が。
「・・・私の責任だわ」
吐き出すようなその声に、ハンスが即座に否を唱える。
「そんなことは――!」
「いいえ。これは私の責任よ。家臣の揺らぎに気づけなかった。導けなかった。未熟なの」
目を閉じるシリの顔は、深い悔しさと自責の念に満ちていた。
「シリ様・・・」
エマが首を振るが、その言葉はシリの胸に届かない。
「・・・ゴロクには、もう伝わって?」
「はい。すでに軍議に入っているとのことです」
「そう・・・」
短く頷いたその背に、孤独がにじむ。
――ゴロクは、どんな想いでそれを受け止めたのだろう。
無表情に見えて、胸の奥では静かに燃え上がっているに違いない。
「戦とは・・・哀しいものですね」
誰にともなく、ぽつりと漏らした。
「力ではなく、心を削り合う。信じていた者の刃ほど・・・深く刺さる」
エマの目には、涙がにじんでいた。
シリは彼女に微笑みかける。
ほんの、わずかに。
「気を強く持たないと。これは、まだ始まりにすぎないのだから」
そう言いつつも、シリ自身もまた、心の奥にひとしずくの涙が落ちるのを感じていた。
「・・・まだ、勝てるわ。必ず」
その声は少し震えていた。
忠義が崩れ、信が反転する。
その渦中で、なお毅然と在り続けるために――
シリは落ちた書類を拾い上げ、そっと指先で揃える。
「・・・まだ負けが決まったわけじゃない。この城を、私が守る」
春の夕光が、彼女の横顔を淡く照らしていた。
気がつけば200話!
長いようで、あっという間でした。
時に泣きながら、時に笑いながら書き続けてこられたのは、読者の皆さまのおかげです。
ここから先も一緒に、この物語を見守っていただけたら幸せです。
次回ーー本日の20時20分
ノア、出陣せず――。
ゴロク軍に広がる衝撃と、残された者たちの動揺。
その空白を埋めようとマナトは剣を握り、シリは子どもたちの食卓で静かに決断を固める。
裏切りと不安の夜に、それぞれの覚悟が試されていく――。
「母の疑惑 夜の懸念」




