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魅力的ですーーなんて

ノルド城に、遅い春が渋々やってきたようだった


ゴロクが出陣して半月が経った。


「シリ様、報告が届いています」


老臣ハンスの声に振り向くと、手紙が恭しく差し出された。


送り主はマナトからだった。


シリは、手を止め、少しだけ息を吸い込んだ。


封を開くと、インクの香がふわりと立った。


『戦況は変わらず。

キヨ殿は陣を張り、我らの兵と対峙中。

互いに兵を動かさず、鋭く睨み合いが続いております』


シリの指が止まった。


「睨み合い・・・」


そう話す、言葉にハンスはピクリと肩を動かした。


「ジャックが一度はキヨを攻めたようですが・・・その後は膠着状態のようね」

シリはハンスに向かって話す。


「それは・・・いつ、戦が始まってもおかしくないという空気ですね」

数多の戦を乗り越えた老臣が頷く。


シリは文を伏せ、両手でそっと胸の前に置いた。

それはまるで、遠くの戦場をこの手で確かめるようだった。


「兵糧が尽きる前に動くでしょう」


「そうですね」


「・・・こういう、黒とも白とも言えぬ状況は・・・待つ身は辛いわ」

ハンスの前で不安をこぼす。


「ゴロク様を信じるしかありません」

そう話すハンスの目を見ると、同じ想いを抱えていることにシリは気づいた。


シリは立ち上がり、中庭で満開の白い花を見つめた。

風が、枝先を揺らしていた。


その風の音が、なぜか戦鼓のように聞こえた。


「・・・私たちも頑張りましょう」


彼女はそっと微笑んだ。

けれど、その笑みの奥には、はっきりとした覚悟があった。


――ゴロクが戦うならば、自分もまた、妃として、母として、最後までこの城に在り続ける。


嵐の前の静けさが、ノルド城を包み込んでいた。



早朝の中庭に、木剣が空気を切る音が響いていた。

続く激しい息遣いが、静寂の朝に熱を帯びさせる。


兵が出払った今、シュリはもっぱらこの場所で稽古をしていた。

警護の人手が足りないため、専用の稽古場にこもることはできない。


ユウの側にいるためには、中庭で剣を振るうしかなかった。


その回廊を、ユウが静かに歩いてくる。

気配に気づいたシュリが手を止め、息を整えて頭を下げた。


「おはようございます」


「シュリ、私に気を遣わなくていいわ」

ユウは淡々とした声でそう言う。


それでも、シュリはその視線を意識せずにはいられなかった。


ゴロクが出陣してから、ユウは毎朝こうして中庭を訪れるのが日課になっていた。


「シュリ、そろそろ終わりにして」


まもなく朝食の支度が始まる頃だ。


声をかけなければ、シュリはずっと稽古を続けてしまう。


それが、ふたりの間にできた暗黙の習慣だった。


「はい」


息を弾ませながら応じるシュリの表情に、ユウは思わず目を伏せた。


「ここへ・・・」

ユウは、隣の石椅子を指差す。


シュリが戸惑いながら腰を下ろした。


「・・・稽古を見ていて、楽しいのですか?」


「楽しいわ」


意外なほど即答だった。


「・・・どうして?」


「私も、剣を習いたかったからよ」

ユウは、少し寂しそうに微笑んだ。


「男の人はいいわね。剣ひとつで自分を高められる。

戦場に立って、誰かを守ることができる」


その言葉に、シュリの目元がわずかに緩む。

ユウらしい言葉だった。


「・・・私は、男になりたかった」


ぽつりと零された本音。


「男になって、強くなって・・・戦に出て、父と兄を追い詰めたキヨを、殺したいの」


その声は、微かに震えていた。


「・・・何もできないの。ゴロク様や家臣たちは命をかけているのに、私はここにいるだけ。

一番、キヨを殺したいと思ってるのに・・・」


ユウは、悔しげに視線を落とす。


――ユウ様が男だったら。


シュリは、何度もそう思ってきた。


きっと立派な領主になっただろう。


けれど。


「私は・・・ユウ様が、女性に生まれてくださって良かったと思います」

静かな声だった。


ユウは驚いたように顔を上げる。


汗を拭いながら、シュリは続けた。


「ユウ様が男でいらしたら・・・シン様のように殺されていたかもしれません」


「・・・そうね」


そう答えるユウの声は、ほんのわずかに揺れていた。


――女だから、生きている。


「それに、ユウ様は・・・そのままで、十分です」


シュリの瞳はまっすぐだった。


「強いお心を持って、前を向いておられる。その姿は、とても・・・」


そこまで言って、言葉が止まる。


ーーその先は、言ってはいけない。


「・・・とても?」

ユウが問い返す。


その瞳は、まっすぐシュリを射抜くように見つめていた。


――抗えない。


シュリは、ほんの少し唇を震わせた。


「・・・魅力的です」

かすれた声だった。


それ以上の言葉を言わなかった自分に、心の中で感謝した。


ユウは、少しだけ息を吸い、ゆっくり吐いた。

その頬に、うっすらと赤みが差す。


「そう」

ユウは頬を染めたまま、前を見つめた。


庭木の枝が風に揺れ、淡い花びらが一枚、ふわりと舞い落ちた。

その小さな震えが、ふたりの心に起こった予兆のように思えた。


ユウとシュリの間に沈黙が落ちた。


ふたりの間に流れた小さな波紋は、何もなかったかのように朝の光に溶けていった。


だが、その穏やかな時間は、長くは続かなかった。



昼前、見張り台の鐘が高く、乾いた音を響かせた。


「緊急の報せです!」


駆け込んできた兵の声に、シリはすぐ立ち上がる。


「何があったの?」


「前線より、伝令が・・・!」


シリは受け取った文を開き、息をのんだ。


ーー状況、急変。キヨ軍、攻勢に転じる。ジャック隊、後退中。


手紙の末尾に記された一文が、静かに胸を刺す。


「・・・来たわね」


手にした紙が、かすかに震えていた。



次回ーー明日の9時20分


ノアの砦に届いたのは、かつての友キヨの密書だった。

揺れる忠義と友情のはざまで、彼は槍を取ることを拒む。

裏切りの報は瞬く間に戦場へ広がり、ゴロクの軍に深い亀裂を落とした。

そしてノルド城のシリもまた、その衝撃に胸を抉られる――


「裏切りではなく、選べなかった」

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