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別れの前の静けさ

雪がまだ地面に残る道を、ゴロクが率いるシズル領の軍勢が静かに進んでいた。

目指すのはワスト領。進軍の途中、彼らは領境にある北の砦で馬を停めた。


「ノア、ここに滞在して敵を引き止めてくれ」


ゴロクが声をかけると、ノアはその場に膝をつくように崩れ落ちた。


「はっ・・・承知しました」


かすれた声で返事をし、頭を深く下げる。


顔を上げようとしないその姿に、ゴロクはそっと肩へ手を置いた。


「頼むぞ。ここは大事な場所だ。ここで敵を食い止められれば、シズル領は守られる」


「・・・はい」


短い返事の奥に、不安がにじむ。


ゴロクは微笑みながら続けた。


「ノア、お前の守備の堅さは一目置いている。ここは任せた」


それでもノアは顔を上げず、ただ静かに頭を下げたままだった。


少し離れた場所で、その様子をじっと見つめる視線があった。


重臣のマナトだ。


ーーノア殿の様子、明らかにおかしい。


出陣の数日前から、みるみるうちに顔色が悪くなっていた。


何があったのか。


気になっていたが、雑務に追われ、声をかける機会を逸してしまっていた。


ーーこのまま放っておいたら、良くないことが起きるかもしれない。


胸騒ぎを覚えたマナトは、思い切って口を開いた。


「そんなに大事な砦なら・・・私も残りましょうか」


だが、ゴロクは静かに首を振った。


「守備だけでは、戦は勝てん。

マナト、お前の冷静さと剣の腕は、攻めの場でこそ活きる。お前には前線を任せたい」


マナトは一瞬、言葉を失った。


だが、それ以上何も言えず、ただノアを一瞥する。


ノアの肩が、ピクリと震えた。


ーーやはり、何かを抱えている。


「さあ、出陣だ!」


ジャックが剣を高く掲げ、号令をかけた。

それを合図に、軍勢はゆっくりと動き始める。


マナトは歩を進めながら、もう一度だけ後ろを振り返った。


ノアが砦の前で、一同に向かって深く頭を下げているのが見えた。


その背は、小さく、揺れて見えた。



砦に残されたノアとその家臣たちは、着々と争いの準備を進めていた。


ノアの槍は、いつでも手に取れるよう、砦の奥ではなく玄関近くに据えられた。


それは、彼の覚悟の現れでもあった。


しばらくして、遅れて妻のマリーが砦に到着した。


荷を解くなり、彼女はほうきを手に取り、静かに掃除を始めた。


砦の中には、徐々に柔らかな空気が満ちていく。


「マリー、おかげでずいぶん綺麗になった。ありがとう」


ノアが声をかけると、マリーは穏やかに微笑んだ。


「頑張りましょうね。ここで暮らすなら、まずは足元から」


砦で生活をする――それは、女性にとって決して安全なことではなかった。


ここは最前線に近い。


敵襲の可能性もある。


それでもマリーは、砦の一角で布を縫い、台所を整え、怪我人用の寝台を点検していた。


まるでここを“小さな城”に作り替えるように。


その姿を見て、ノアの胸にじんとしたものが広がる。


――ありがとう、マリー。お前のおかげで、ここが人の住む場所になる。


城のざわつきから離れ、こうして砦で過ごすことは、むしろ自分の心に良いのかもしれない。


あの人――キヨからの便りも、ここまでは届かないだろう。


今夜は・・・久しぶりに、眠れそうだ。


そう思った、そのときだった。


「あなた・・・これ」


マリーの声が低く、硬い。


振り向くと、彼女の手には一通の手紙が握られていた。


「・・・それは、まさか」


ノアの声がかすれる。


息が詰まる。


「キヨからよ。さっき、使者が来たわ」


ノアはゆっくりと手紙を受け取り、震える指で封を切った。


開いた文には、太く力強い筆致で一言だけ、こう書かれていた。


「こちらに つけ」


その文字を見た瞬間、ノアの身体が揺れる。


「ああ・・・」


呻くように言いながら、頭をかきむしり、机に肘をついて突っ伏した。


「見張っている・・・キヨは・・・私を、まだ・・・」


つぶやき続けるノアの背中を、マリーはそっとさすった。


その手は小さく、しかし懸命だった。


彼女にできることは、それだけだった。




◇ ノルド城 シリの部屋


窓から差し込む淡い陽の光が、銀の茶器を柔らかく照らしていた。


「まあ、いい香り・・・」


ドーラがカップに鼻を近づけて目を細めた。


「ノルド城に、こんなお茶があったのね」

プリシアが感嘆するように言う。


「街道が再開して、少しだけ珍しい品が手に入ったのよ」

シリが静かに応じた。


カップを置く指先には、疲労の色が滲んでいる。


ドーラがさりげなく言う。


「・・・シリ様、お顔が少しお疲れのようです」


「そうかしら?」

シリは微笑んだが、その笑みはどこか虚ろだった。


「・・・ご無理をなさらないでくださいね。私たちでできることがあれば」


プリシアの声に、他の妾たちもそっと頷く。


フィルはそっぽを向くようにしながらも、ぽつりとつぶやいた。


「それにしても・・・ノア様は砦に残られたのですね」


その質問にシリは思わず微笑む。


ほんの数ヶ月前まで、この三人が政の話を口にするとは思わなかった。

化粧の粉と香油の話ばかりしていたのに――



それが、ともに戦の支度をして皆と過ごすうちに、

政のこと、外のことに興味や関心を持つようになってきた。


「ええ。心配だけれど、信じて託しました」


シリの言葉に、一瞬沈黙が落ちる。


その間に、カップの中のお茶が静かに揺れる。


「ノア様・・・最近、あまり様子が良くないと聞きました。奥様のマリーも同行されたと」


ドーラの言葉に、シリは小さくうなずいた。


「マリーは、きっとあの砦を“家”に変えてくれると思う。

あの方には・・・そういう力があるの」


その言葉に、妾たちはふと視線を交わした。


彼女たちもまた、シリのそばにいて考え方を変えてきたのかもしれない。


「・・・私たちも、ノルド城を守りますわ」

プリシアがふいに口を開いた。


「そうね。女の手で守れる場所は、ちゃんとある」

ドーラが続ける。


「もう、軟膏の作りからは覚えたわ」

フィルが呟く。


シリはその言葉に、ふっと息を吐いた。


「ありがとう。みんなのその言葉が、一番心強い」


お茶の香りが、かすかに広がる。


ユウがシズル領の跡をとると決めた今、子作りの必要がなくなった。


ゴロクは春になったら彼女たちを自由にすることを、シリに話していた。


けれど、ゴロクは出陣前に彼女たちに別れを告げなかった。


ーー争いに勝てたら・・・それで良い。


ゴロクが彼女たちに伝えるべきなのだ。


けれど、敗れたとしたら。


彼女たちの命の責任は自分にある。


そのことを考えると、責任の重さに胸が締め付けられる。


「・・・それにしても、シリ様、どうして私たちと・・・お茶をするのですか?」

ドーラが躊躇いながら質問をする。


隣にいる2人も頷く。


ーー妾と妃がお茶を共にする。

聞いたことがない。


「・・・あなた達の前だと、肩の力が抜けるのよ」


シリは微笑みながら話す。


ーーそれは嘘ではない。本当の気持ち。


「えっ?」

3人は驚きのあまり口を開けた。


「や・・・安らぎますか?私たちといて」

プリシアの声は少し引き攣っていた。


フィルは目を細める。


「ええ。安らぐわ。娘達の前では妃の手本として振る舞わないといけない。

家臣、侍女や女中の前では支持を出し、不安にさせないように努めなくていけない」

シリは淡々と話す。


そして、静かに膝の前で指を組む。


「・・・なんだか、あなたたちといると、ふっと肩の力が抜けるのよ」


そう話すシリの瞳は嘘がないものだった。


「・・・そんな」

フィルが驚いたように呟く。


「ゴロクがあなた達を求めるように、今の私は、あなた達が必要なのよ。

ほっとしたくて」


ーーずっと、この人たちと仲良く暮らしていけたら。


それがシリの率直な気持ちだった。


「・・・シリ様、そんな風に思ってくれるなんて・・・嬉しいです」

プリシアは声を震わせて話した。


ーー妾は妃にとって目の上のたんこぶのような存在だと思っていた。


それなのに、この妃はそんな私たちを認め、共に過ごし安らぐと話してくれる。


「シリ様のような人は・・・どこにもいません」

ドーラの声は上ずる。


「・・・こうして、疲れたときは、また一緒にお茶を飲んでもいいかしら?」

そっとカップを見つめながら、シリは言った。


フィルは、何も言わずに強く頷いた。


ーーこの妃と、もっと一緒に過ごしていたい。

心から、そう思った。


この日ともにした一杯の茶の温もりは、

後に訪れる別れの時まで、彼女たちの心をそっと支え続けた。




次回ーー本日の20時20分


ノルド城に遅い春が訪れたのも束の間、前線から急報が届く。

「キヨ軍、攻勢に転ず――」

睨み合いの膠着は終わり、戦の幕が切って落とされた。

シリと娘たち、そしてユウとシュリの胸を焦がす“本当の試練”が始まろうとしていた。


「魅力的ーーだなんて」

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