託されたもの――できる、できないじゃないの。やるしかない
「・・・シリ様、お部屋に戻られたみたいね」
窓辺から回廊を眺めていたプリシアが、ぽつりとつぶやいた。
その声に、ドーラがうなずく。
「目元が少し赤かったわ。・・・泣いてたのかしら」
「泣くわけないじゃない。あの方が」
フィルがかぶせるように言った。
けれどその声音には、どこかためらいがあった。
妾たちの控えの間には、今、あたたかな日差しが差し込んでいた。
けれど、空気はどこか張りつめている。
「ゴロク様は出陣前に私たちの元に来られなかったわ・・・」
プリシアが悲しげに呟く。
「どうせ、あの妃様と最後の夜を楽しんでいたのよ」
フィルは拗ねたように話す。
「出陣前は・・・ゴロク様は多忙なはず。私たちの元に来ることはない・・・わ」
ドーラが少し早口で話す。
「・・・昔、出陣前でも私たちのところに来てくれたわ」
プリシアがぽつりと言う。
「あの頃は、まだシリ様はいなかった」
「出陣前は、平等に抱いてくれたのに・・・」
「・・・私たちより、強い魅力がシリ様にはあるのよ」
ドーラが俯きながら話す。
「妃様は強すぎるわ。その強気が・・・ゴロク様には良いのでしょうね」
フィルは吐き捨てるように話す。
ーー本当はシリの魅力がそれだけではないと知っている。
選ばれなかった悔しさが滲む。
「本当に。私たちが泣いてもすがっても、きっとあの方は――微笑んでる」
「・・・でも、強い人ほど、泣き方を忘れてるのよ」
ふと、ドーラが言った。
その声に、誰もが言葉を失った。
「私たちに、何ができるかしら・・・ね」
ドーラは小さく息を吐いた。
ーーそれでも、ここにいる限り、見届けるしかないのだろう。
シリという妃が、そしてあの娘たちが、何を背負い、どこへ向かうのかを。
◇
気持ちを落ち着かせた後、シリは娘たちを自分の部屋に呼び寄せた。
窓の外では、まだ門の方で留守を守る家臣達が慌ただしく動いている気配がする。
「あなたたちに、話しておきたいことがあります」
シリの声は、いつもより柔らかく、それでいて凛としていた。
ユウ、ウイ、レイ、三姉妹は緊張した面持ちで母を見つめる。
「これから先、城の空気は変わります。ゴロクが出陣した今、城の中は“私たちの場所”になる」
三人の目が揃って動く。
シリはゆっくりと続きを紡いだ。
「妃とは、ただ夫を支える者ではありません。
領主が留守の間、私たちは、この領と家、そのものの守り手なのです」
視線を、年長のユウに向ける。
「まず、知恵を持ちなさい。
どれほど心があっても、政においては冷静でなくてはならぬ時があります」
次に、ウイの手をそっと取る。
「胆力を持ちなさい。時に、目の前で家臣や民が混乱します。
その時、動じず、言葉を選んで導く勇気がいるのです」
そして、レイの黒い瞳を見つめる。
「そして、“家の守護神”でありなさい。
誰かがこの家を信じる力を持っていなければ、家中は揺らぎます」
三人の娘が真剣に聞いているのを見て、少しだけ表情を和らげる。
「これから伝える事、あなた達は経験してほしくないの」
ーーこの子達には、争いがない人生を歩んでほしい。
自分のような苦しみを味わせたくない。
「けれど、人生は何が起きるかわかりません。その時のために備えるのです。
これは、あなたたちの父、グユウさんの言葉です」
シリが伝えると、三姉妹は顔を上げた。
一呼吸、置いてから言葉を締めくくった。
「グユウさんは、あなた達を生かすために私に使命を託した。
その時のために、出陣後の妃の仕事を伝えます」
シリは立ち上がり、窓の外を見た。
「それが、妃の務めです」
「承知しました」
ユウが強い瞳で返事をし、ウイは戸惑いながら、何度も頭を振った。
レイは静かに頷いた。
静かな空気が室内を取り囲んだ。
だがその沈黙の中で、三人の娘は確かに、母から何かを受け取っていた。
「あなた達も・・・」
シリは後ろに控えていた三姉妹の乳母と、シュリに目をむける。
「この子達が困っていたら、助けられるように・・・仕事の内容を覚えてほしいの」
「はい」
乳母達を一斉に頭を下げた。
シュリは、一瞬、シリと目が合った。
まるで『ユウのことを頼む』と言っているようだった。
ーーシリ様がここまで託す相手は、ほかにいないのだろう。
そう思った瞬間、背筋が自然と伸びた。
「承知しました」
シュリは言葉以上の強い想いを瞳に乗せて、頷いた。
◇
「シリ様、後詰の兵糧搬入、予定より遅れております」
報せを持って来た家臣にうなずき、シリはすぐさま歩き出した。
その後を、三姉妹、乳母達が跡をついていく。
その様子は妃というより、シズル領・ノルド城の“主”としての足取りだった。
「応援の書状の返答は? 隣領が援軍を渋っていると聞きましたが」
「はい。いまだ返答なし。ですが使者は出しております」
「ならば、女中頭のナンを向かわせて。隣領の奥方は彼女の縁者よ。話が通るはず」
時折すれ違う者たちが立ち止まり、深く頭を下げるのを、彼女は凛として受け止めた。
政は待ってくれない。
領主がいなくとも、家を守るという務めは、日々の雑務と判断の積み重ねである。
客間、倉庫、軍備庫、侍女たちの居所――。
シリは休まずに歩いた。
「姉上・・・」
ウイが心細げな声で、隣を歩くユウにすがるような目を向けた。
「私・・・妃になったとしても・・・母上みたいになれない」
その声は震え、今にも泣き出しそうだった。
その様子に、レイがふと視線を落とす。
歩きながらも、彼女の目はずっとシリの後ろ姿を追っていた。
ーーあんなふうに、まっすぐに進めるだろうか。
小さく息を吐く。
言葉にはしないが、不安はレイの胸にもあった。
「・・・私もそう思っていた」
ユウが低い声で口を開いた。
「姉上も・・・?」
レイが信じられないという顔をした。
ーー自分とウイはできないとしても・・・ユウなら、このような事はできそうな気がした。
なぜなら、ユウはいつでも堂々として、
生まれながらの妃のような風格が漂っていたからである。
「できる、できないじゃないの。やるしかないのよ」
少しだけ下を向いたあと、強く顔を上げ、母の背を見据える。
「母上が私たちに託そうとしている・・・それを学ばないと」
その眼差しには、いつかあの背中に並ぶという決意があった。
レイは黙って頷いた。
声は出さずとも、その小さな手には、確かな決意が宿っていた。
「シリ様、馬の蹄鉄が不足しております」
「ならば、不要になった釘や鎖を集めさせて。鍛冶場へ回して」
命じる声には迷いがない。
だが、心が揺れぬわけではない。
ふと、ホールに飾られたゴロクの盾に目を向ける。
ーーもし、あの人が戻らなければ、この子達は・・・。
後ろにいる娘達の顔を見る。
そこまで思い詰めた瞬間、喉の奥に熱いものがせり上がった。
だが、それを見せるわけにはいかない。
「・・・泣き言など、言うものではないわ」
誰にも届かぬような声でつぶやき、すぐに口元を引き締める。
細い指が衣の裾をぎゅっと握った。
「私が崩れれば、この家は終わる。女は強くならなければ」
深く息を吸い、振り返る。
その背筋は真っ直ぐで、揺るぎなかった。
戦がどれほど激しくなろうと、女としての責を全うするために――
シリは城を守る。
次回ーー明日の9時20分
北の砦を託されたノアの瞳には、不安の影が揺れていた。
一方ノルド城では、妾たちと茶を囲むシリが「安らぎます」と微笑む。
戦の足音は、確実に迫っていた――。
それぞれの胸に、言えぬ想いを抱えたまま。
「別れの前の静けさ」




