あなたとの約束を・・・守る
ノルド城の大門が開かれ、列をなして出発する軍勢を、シュリは高台から見下ろしていた。
春の朝靄のなか、馬の蹄音と鎧の擦れる音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
土を踏み締める乾いた音すら、彼の胸には痛く響いた。
先頭を行くのはゴロク。
その後にジャック、ノア、マナトが続く。
ノアの姿に、シュリは思わず声を漏らしそうになった。
――憔悴している。
青白い顔。
目の下の影は濃く、頬はげっそりとこけていた。
「・・・ノアは、どうしたのかしら」
ユウがすっと傍に立ち、小さく呟いた。
「お気づきになりましたか」
シュリは声を顰めて答え、彼女は黙って頷いた。
やがてフレッドの馬が進んできた。
若手の兵の先頭。
その剣技と人柄は多くに慕われ、未来のシズル領を担う者として誰もが名を挙げる。
フレッドは、ユウをじっと見つめた。
それは、やや露骨すぎるほどのまなざし。
頬を染め、ユウはそっと頷いた。
それを見た彼は、にやりと笑った。
いつもの、まっすぐで飾らぬ笑顔――だが今は、シュリの胸をざわつかせる。
数日前の別れを思い出す。
ユウの腕を引き寄せたフレッドの動き。
――自分も、それができたら。
そう願ってしまったことを、今も責めている。
ユウは驚いた顔をしていた。
だが、拒まなかった。
フレッドは、そういう人だ。
まっすぐで、ためらいなく、想いを伝えられる男。
それが、羨ましくないわけではない。
ただ――焼けるような痛みが、胸の奥に広がるだけだった。
さらに後方に、リオウの姿が見える。
ただ馬に跨っているだけなのに、整った容姿はまるで絵画のようだった。
侍女たちの小さなため息が、背後から聞こえてくる。
左肩にはコク家の紋章。
それを見て、ウイが一瞬、輝くような顔を見せた。
だがリオウの視線は、金の髪を風に揺らすユウに注がれていた。
そしてユウも、小さくうなずいた。
そのやりとりだけで、言葉以上のものが伝わってくる。
リオウの眼差しは多弁だった。
ユウを想っている。
まっすぐに、強く。
ユウの頬が、かすかに赤く染まる。
昨日のことが、シュリに胸に蘇る。
リオウが口づけを求めたとき、自分は思わず立ち上がりそうになった。
『やめろ』『触れるな』
そう叫べたら、どれだけ楽だったろう。
けれど、彼女は拒まなかった。
ユウは――今も、揺れている。
誰を見て、誰を選ぶのか。
その揺らぎこそが、一番苦しかった。
自分は知っている。
ずっと前から、ユウのことが好きだった。
「好いている」という言葉だけでは表せない想いがある。
でも、それを口に出してはいけないと決めた。
あの人が誰かと結ばれても、そばにいると決めたのだから。
フレッドに目を伏せ、リオウの口づけに赤らむユウ。
そこには、戸惑いと、気まずさと、少しの哀しみがあった。
あんな顔を、初めて見た。
それが――ほんの少しだけ、寂しかった。
もう、あのふたりの間に流れる空気には、踏み込めない気がした。
けれどユウがこちらを振り向いたとき、シュリは何でもない顔で一礼した。
――辛い。
けれど、それを顔には出さない。
――俺は、あの人の隣に立てる人間じゃない。
けれど、それでも。
命をかけてでも、ユウを守りたいと思った。
この場所で、彼女の笑顔が絶えぬように、剣を握ると誓った。
軍の列が山道へと消えていく。
寒空に、吐く息が白く揺れる。
シュリは、その場を離れず、ずっと見送っていた。
やがてすべての姿が見えなくなっても、彼の視線はなお、遠くを見つめていた。
――俺が守る。
この城と、ユウ様を。
それだけが、自分に許された“好き”の形だった。
◇
兵が山の合間に消えた頃、シリは唇をギュッと噛み締めた。
「――門を閉じて」
静かに命じると、家臣たちは即座に動いた。
重い扉が軋みを立てて閉ざされる音に、ひとつ息を吐く。
「まだ、仕事が残っているわ。部屋に戻ります」
そう話して、足早にその場を離れた。
「母上は強い方ね」
その背を見つめながらウイはつぶやく。
「私は・・・あんな風になれるのかしら」
不安げに話すウイの言葉に、レイが黙って頷く。
「なれるではなく・・・なるしかないのよ」
ユウが静かに話した。
シリは早足に回廊を渡り、自分の部屋にたどり着くなり、重い扉を押し閉めた。
ーー誰にも見られてはならない。
誰にも、気づかれてはいけない。
そう思えば思うほど、胸の奥が締めつけられる。
扉に背を預けたまま、ゆっくりとしゃがみ込む。
薄く開けた口から、かすかな吐息が漏れた。
「・・・怖い」
その言葉は、誰に向けたわけでもなかった。
ただ、押し殺していたものが唇からこぼれ落ちたのだ。
ーー無事に戻ってくるのよ。誰一人欠けずに。
そう願っても、祈っても、戦とは理不尽で、残酷なものだ。
あの子たちの笑顔も、あの人の手のぬくもりも、もう二度と戻らないかもしれない。
「・・・嫌」
震える手で口元を覆う。
泣き声を殺すように、シリは目を閉じた。
目を閉じたその先に浮かんだのは、三姉妹の顔。
ゴロクのあたたかい眼差し。
平和で穏やかな暮らしが壊れていく。
もう、あの穏やかな冬の日々は帰ってこない。
ーー私は、妃。母。今はここの指揮官。
けれど今は、ただの怯える女でしかなかった。
しばらくの間、シリは動けなかった。
静まり返った室内に、時計の針の音だけが響いていた。
ーー争いが怖い。
9年前のように築いたものが、一瞬で壊れる恐ろしさが胸に迫る。
棚の上に置いてある木像を見つめる。
「グユウさん」
思わず木像に手を伸ばす。
「守るわ・・・あなたとの・・約束」
その声は掠れていた。
誰にも見せない涙が、頬をつたう。
ーー約束したのだ。
グユウと。
セン家の血を残すと。
シリは一つ大きく息を吐いた。
涙に濡れたその瞳は、再び強さが滲んでいた。
「あの子たちの命を守る」
小さくつぶやいた声は、力強かった。
次回ーー本日の20時20分
出陣した夫を見送り、涙を隠すシリ。
けれど、娘たちの前に立ったとき、その背筋は揺るがなかった。
「妃とは、家を守る者。知恵と胆力を持ちなさい」
母から娘へ、そして侍女や家臣へ。
戦乱のなか、シリは「女の務め」をひとつずつ伝えていく。
泣き崩れる代わりに、未来を託すために――。
「託されるものーできる、できないじゃなくて、やるの」
⚫︎お知らせ
短編小説を書きました。
寡黙な領主 グユウと勝気な姫 シリ 結婚して10日目の出来事。
グユウ視点です。
「金色の妃に恋した、寡黙な領主」
https://book1.adouzi.eu.org/N9994KZ/




