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別れの朝、涙は見せずに

薄明かりの差すノルド城――


ゴロクは静かに身を起こし、隣で眠るシリを見つめていた。


呼吸は穏やかで、白い肩が布の隙間からのぞいている。

その姿はあまりにも静かで、儚げで――けれど、どこか芯の強さを帯びていた。


「・・・シリ様」

その名を呼んだ瞬間、言葉にならない想いが、喉の奥をせき止めた。


ーーこんなにも美しい者を、老いたこの身が妻に迎えたなど――まだ夢のようだ。


尊敬する領主の妹。

彼女が幼い頃から、ずっと見守ってきた。


初めて嫁ぐときも、傍で付き添った。

心から慕っていたグユウと別れを選んだ時も、その強く美しい横顔を見ていた。


こうして、いま自分の腕の中にいる。


だが――彼女は自分を、愛してはいない。


けれど、妃として寄り添い、信じてくれている。

そのことが、何よりも尊く、ありがたかった。


伸ばした指先が、頬の髪をそっと払う。

たったそれだけで、胸の奥が満たされていく。


彼女のすべてを、守りたい。

この命を賭けてでも――


ふと、まぶたがわずかに震え、ゆっくりと開いた。


「・・・見ていたのですか?」


かすかに笑んで、シリが囁く。


「・・・ああ」


ゴロクは目を逸らさず、静かにうなずいた。


「恥ずかしいわ」


そう言いながらも、シリは視線を逸らさず、じっと見つめ返してくる。


ゴロクの手が、そっと頬に触れる。

その大きくて温かな手が、彼女の顔をやさしく引き寄せた。


「・・・愛しい」


かすれるような囁きとともに、唇が触れる。


シリは、目を閉じた。

けれど、体はかすかに震え、肩がぴんと張ったまま、動かない。


力を抜こうとしても、抜けなかった。

深い覚悟を秘めたその口づけを、ただ静かに受け止めた。


ゴロクは気づいていた。


けれど、それでも――優しく、そっと口づけた。


「この戦が終われば・・・シリ様の元に戻ってくる」


「・・・生きて?」


ゴロクは答えず、ただ、深くうなずいた。


シリは、微笑む。


「私は、待っています。勝っても、負けても・・・待っています」


言葉が尽きた。


ゴロクはそっと彼女の手をとり、その青く澄んだ瞳を見つめる。


「これほど命を惜しいと思ったのは・・・初めてだ」


そのまま、そっとシリを抱きしめた。



薄紅の空がノルド城に差し込みはじめたころ、三姉妹は広間に足を踏み入れた。


甲冑を身にまとい、戦支度を整えたゴロクとシリがそこにいた。

その姿を見て、ゴロクは思わず目を見開く。


――まさか、逢いに来てくれるとは。


「出立前に、ご挨拶に伺いました」

ユウが一歩進み出て口を開く。


十四歳とは思えぬ落ち着きと、清冽な声音。

その眼差しは、未来をまっすぐに見据えていた。


ゴロクは静かにうなずいた。


「ユウ様。長女として、シリ様を支えてくれ」

「はい」


シリはその横顔を見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。


――いつの間に、こんなにも大人びた顔をするようになったのだろう。


その隣にいるウイは、怯えたようにユウのドレスの裾を握っていた。

唇がわずかに震えている。


「ウイ様。その優しさは、周囲をあたためる力になる。

つらい時こそ、笑顔を忘れてはならぬぞ」


涙をこぼしたまま、ウイは小さく頷いた。

小さく唇が動く。

けれど「行かないで」の言葉は、声にならなかった。


その姿に、シリは静かに息をのむ。


レイは、何も言わずただじっとこちらを見つめていた。


「レイ様。人の痛みを知る者は、やがて人を守る者になる。

・・・レイ様なら、きっとできる」


レイは黙って首を縦に振った。

小さな肩が、震えていた。


「・・・わたし、泣かない」

そう小さく呟いた声は、誰の耳にも届かなかった。


ゴロクは三人の顔をゆっくりと見回し、やさしい声で言った。


「シリ様を――母上を頼んだぞ。

わしのいないあいだ、皆で力を合わせて、生きていくのだ」


「はい」


三人の声が重なったその瞬間――

シリの胸にこみ上げてきたものがあった。


それは、母としての誇りと、

この子たちを残して夫を送り出さねばならぬ現実への、どうしようもない哀しみだった。


ーーどうか・・・この人が、生きて戻れますように。


祈るように組んだ手を、誰にも気づかれぬように握りしめる。


そのとき、ゴロクは控えていたシュリに目を向けた。


「シュリ。お前をここに残す意味、わかっておるな?」


「はい。シリ様と姫様方をお守りいたします」


まっすぐに頭を下げて答えたその姿に、ゴロクもシリも、わずかに表情を緩めた。


そしてゴロクは、重い甲冑のまま、ゆっくりと腰を上げた。


「それでは――出陣する」



空は薄紅に染まり、霜を帯びた空気の中に、馬蹄の音が響いていた。


ノルド城の前庭に、兵たちが静かに列をなして並ぶ。


先頭に立つのは、銀灰の甲冑を纏ったゴロク。


その背には、シズル領の紋をあしらった紺の軍旗が翻っていた。


馬の鼻息が白く立ち昇り、鉄の鎧がかすかにきしむ。


誰も声を発しない。


その沈黙が、かえってこの戦がただ事ではないことを物語っていた。


後方には、荷車がゆっくりと軋みを立てて動き出す。

兵糧、矢束、予備の槍――争いの長期化を見越した支度だった。


その様子を、城の石段から三姉妹とシリが見守っている。


ユウは、胸に手を当て、黙って前を見つめていた。


ウイはその腕の後ろに隠れ、唇をかみしめている。


レイは小さな手で、シリの袖を握っていた。


ゴロクが最後に城門の前で馬を止め、振り返った。


その視線が、シリにまっすぐ注がれる。


言葉はなかったが、それだけで伝わった。


――必ず戻る。だから、待っていてくれ。


シリはうなずいて、力強い声で叫んだ。


「ご武運を」


その眼差しは、確かに「いってらっしゃい」と告げていた。


軍列がゆっくりと動き出す。

鎧の音、馬の蹄、荷車の軋みが、静かな朝に低く響く。


城門の外へ、一筋の列が伸びていく。


それは、命を懸けた戦へと向かう者たちの背であり、

それを見送る者たちの、祈りの始まりでもあった。


風が吹き抜け、軍旗を揺らした。


ノルド城の高台に残った女たちは、誰も泣かなかった。


泣きたい気持ちは、それぞれの胸の奥で、静かに燃えていた。


ただ、まっすぐにその背中を見送った。



次回ーー明日の9時20分


出陣の朝、ノルド城の門は閉ざされた。

ユウをめぐる想いに揺れるシュリ、彼女を見つめるフレッドとリオウ。

すれ違う視線のなかで、戦は容赦なく始まろうとしていた。

誰にも見せずに泣き崩れるシリ。

「・・・怖い」

けれど母として、妃として、必ず守ると誓う。

愛と戦乱に揺れる、春の一幕――。


「あなたとの約束を・・・守る」


◎お知らせ

エッセイを更新しました。

▶ 『6000PVがあったのにランキング外!』

https://book1.adouzi.eu.org/n2523kl/


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