唇ではなく、額に
中庭は、茜色に染まり始めた夕陽の中に、静けさをたたえていた。
涼やかな風が吹き、咲き始めた白い花の香が、ほんのかすかに空気を揺らしていた。
ユウが到着すると、リオウは既にそこにいた。
緊張した様子ではなく、けれどどこか落ち着かない面持ちで立っている。
「お待たせしました」
ユウが声をかけると、リオウはハッとしたように振り返った。
「ユウ様・・・」
その目に、ほんの少し、戸惑いが宿る。
「出陣前に・・・一目、お逢いしたかった」
「・・・そうですか」
ユウの声は静かで、少しだけ固い。
互いに何を話すべきかを探るように、しばらく沈黙が流れた。
リオウが先に口を開いた。
「おそらく・・・しばらくは、お逢いできません」
「・・・ええ」
「ですから・・・これはただの、わがままです。
ほんの少しだけでいい。ユウ様にお逢いしたかった」
その言葉に、ユウは視線を伏せた。
「・・・でも、いまはそれ以上のことは、考えられません」
言葉だけが、乾いたように響く。
リオウはそっと近づいた。
「ユウ様、私はあなたを好いています」
その言葉にユウは、そっと目を上げる。
「私が・・・帰ってきたら・・・結婚してもらえますか」
リオウは、ユウの顔を覗き込むようにして見つめる。
ーーこんな惨めな気持ちは初めてだ。
その約束だけはできない。
リオウは良い人だ。
けれど、結婚するとか・・・そんな具体的なことは考えられなかった。
けれども、何の希望も慰めも与えずに前線へ向かわせるのは、残酷で無情に思えた。
「ごめんなさい・・・私はまだ・・・決めることができないのです」
ユウは切なげに俯く。
「・・・そうですか」
リオウの黒い瞳は悲しげに揺れた。
「ごめんなさい」
ユウはもう一度伝えた。
「気にしないでください」
リオウは優しく、ユウを見つめた。
「私は・・・ユウ様のお心が変わるまで待てます」
ーーなんて立派な対応だろう。
ユウは思った。
自分が同じ立場なら言えるだろうか。
リオウが感じの悪い態度を取ったのなら、これほど悲しんだり、
気が咎めないのに。
「ユウ様の想いを持って争いに行くことができないのなら」
リオウはそっと呟く。
「せめて、出陣の前にお別れの口づけをしてもらえませんか」
「それは・・・」
ユウは頬を赤らめた。
彼は、そっと手を伸ばした。
リオウの瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。
その黒い瞳に、まるで自分の姿が映っているようで。
ユウは息をするのも忘れそうになる。
ーーどうしよう。なんて言えばいいの。
ユウは手のひらが汗ばむ。
「・・・ユウ様」
静かな呼びかけだった。
けれど、その声に込められた想いが強くて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
ほんの少しだけ、リオウが距離を詰めた。
ほんの一歩、リオウが踏み出しただけで、ユウの世界は彼の気配で満たされた。
睫毛の一本一本まで見えるほど近く、彼の吐息が頬にかかるほどに。
ーー来る。
そう思った瞬間、心臓が跳ねた。
視界の片隅でシュリが戸惑うような表情をしていた。
「あ・・・あの」
ユウは思わず、リオウの唇を左手で押さえた。
戸惑うリオウの顔が間近で見える。
「唇・・・ではなくて、額にしてもらえますか」
ユウの顔は真っ赤で瞳は潤んでいた。
ーーなんて美しいのだろう。
リオウはその表情を見て、思わず衝動的に唇を奪いたい気持ちを抑えた。
彼の指先が、そっとユウの頬に触れる。
それは風よりも優しく、震えるような温度を帯びていた。
「ユウ様・・・」
リオウが低くつぶやいたあと、額にそっと唇が触れた。
まるで、祈りを捧げるように。
ユウは瞬きもせず、ただ立ち尽くしていた。
額に残る温もり。
けれどそれは、恋の告白でも、愛の誓いでもない。
まるで祈るような、別れの印だった。
リオウは、そっと後ろへ下がった。
「・・・それでは」
「・・・ご武運を」
声が震えそうになるのを、必死に抑えながら伝えた。
リオウは深く頭を下げ、静かにその場を後にした。
夕暮れの空が、ますます赤く染まっていく。
ユウはしばらくその場に立ち尽くし、そしてようやく、小さく息をついた。
立ち去るリオウの背を、シュリは何も言わずに見送っていた。
◇
ユウの姿が夕暮れの中庭から見えなくなった頃。
その様子を、城の高窓からじっと見つめていた者がいた。
シリは静かに窓辺に額を寄せた。
冷たいガラスの感触が心地よい。
ユウの乳母、ヨシノから報告を受けた。
中庭でリオウと話をすると聞き、ここまでやってきた。
「・・・あんなふうに、戸惑うのね。可愛くて、苦しくなる」
言葉は誰に向けたものでもなかった。
ただ、胸の奥に浮かんでは消えていく想いを、そっと言葉にしただけだった。
リオウの真摯さ。
ユウの戸惑い。
そのすべてが、どれほど戦の行方に影響を与えるのか――
シリにはわかっていた。
「心が決まらぬまま、出陣させるのは酷なこと」
でも、それでも。
今は、誰もが「決めきれないまま」歩みを進めている。
戦だけではない。
信じて、前に突き進む者もいる。
けれど、多くの人は迷いながら、決めきれないまま、歩いていることが多い。
その瞳は静かで、深い湖のように揺れていた。
やがて扉の外から気配がして、シリはそっと背を向ける。
「・・・争いが終わったら・・・決めなくてはね」
シリの言葉にエマがうなづいた。
「その前に争いに勝つことだわ」
シリの瞳は、暗くなった空を見つめた。
その声音には、誰よりも多くの命を背負う者の、決意が宿っていた。
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次回ーー明日の9時20分
かつての忠義が、いまは刃を交える運命に――。
元家臣たちの葛藤と、妃として覚悟を決めるシリ。
それぞれの想いを胸に、戦の幕は切って落とされる。
「かつて仕えたものたち それでも私は妃として」
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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