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渡せた、それだけで

いよいよ明日は出陣――。


皆の協力を得て、準備は整った。

けれど、城内の空気は、どこか張り詰めている。まるで、今にも切れそうな細い糸のように。


シリもまた、胸の奥がざわついて落ち着かなかった。

じっと座っていることができず、何か理由を見つけては動いてしまう。


「こんなふうに動いても、仕方がないのだけど」


自嘲気味にそう言うと、エマが微笑む。


「それは、仕方がないことですよ」


「・・・そうね」


短く答えて、シリはふと思い立ち、大広間へと足を向けた。


その途中、広間へ続く階段の踊り場で、人影が目に入った。

ノアだった。


背筋を伸ばして立ってはいるものの、どこか空気が重い。

声をかけようとして、シリは思わず言葉を飲んだ。


――随分と、やつれたように見える。


元々華奢な身体つきが、さらに一回り小さくなっている。

頬はこけ、目の下には濃い影。

目に力がない。

もう何日も眠れていないのだろう。


「ノア?」


控えめに声をかけると、ノアはビクリと肩を揺らし、驚いたように振り返った。


「シリ様・・・っ。失礼しました」


とっさに頭を下げる姿は、どこか怯えを含んでいた。


「ノア・・・身体の調子は、大丈夫なの?」


シリの声には、穏やかながらも確かな心配が込められていた。


ノアはぎこちない笑みを浮かべて応じる。


「だ・・・大丈夫です。争い前なので、少し眠れなくて」


「・・・そう」


――けれど、とてもそうは思えなかった。


シリは黙って、ノアの顔をじっと見つめる。


その視線の奥にあるのは、ただの妃としての気遣いではない。


かつて、自分が育て、見守ってきた“子”に対する、母のような本能だった。


そのまなざしに胸をざわつかされ、ノアはふいに目を逸らす。


自分が抱えている秘密を、すべて打ち明けてしまいたくなる衝動に駆られる。


その衝動に駆られた、その時――


「ノア! これもマリーに持たせてくれ!」


元気な声が背後から飛んできた。


ハッとして振り返ると、ジャックが大きな樽を抱えて立っていた。


保存食や乾物がぎっしりと詰まっている。

それは砦へ持ち込む大切な食糧だった。


小さな城のような砦には、これからしばらくの間、ノアとその妻マリーも籠ることになる。


女手が必要だという判断からだった。


ジャックは、ノアの隣に立つシリの姿に気づき、慌てて深く頭を下げた。


「す、すみません。お話中に」


「ジャック、いいのよ。気にしないで」


シリは静かに微笑んだ。


その柔らかさに救われるような気がして、ノアは何も言えなかった。


周囲では、あわただしく人々が動いていた。

出陣前日の城は、どこも緊張と焦燥に包まれている。


ーー自分がここにいることで、準備の邪魔になってしまうのでは。


ふと、そんな気がして、シリはノアを気にかけながらも静かにその場を離れた。


残されたノアは、その背をしばらく見つめていた。 

言いそびれた言葉が、胸の奥で沈黙を保っていた。



その頃、ノルド城の東棟――

長い廊下の突き当たり、薄暗い廊下で、ウイは小さく息を吐いていた。


この時間、リオウはこの廊下を歩く――ずっと見ていたから、わかる。


けれど今日は出陣の前日。


きっと忙しくて来られないだろう。


それでも、足は勝手にここへ向かっていた。


ウイの足は、緊張でわずかに震えていた。


ーー頼まれたわけでもないのに、勝手に刺繍なんてして。


それを贈ろうとするなんて。


迷惑かもしれない。


ーーでも、渡したかった。


そう自分に言い聞かせた時だった。



廊下の窓から差す夕陽が、石畳を金色に染めていた。

コツ、コツと石畳を踏む音が響く。


ーーリオウ様だ。


ウイは顔を上げた。


廊下の奥から現れた彼は、いつも通り静かに歩いてくる。


「ウイ様・・・こんなところで・・・どうされましたか?」


薄暗がりの中で、彼の声は思ったよりも近かった。


リオウの瞳が、ふいにウイを真っ直ぐ捉える。


「あ・・・あの、これ・・・」


ウイは反射的に差し出していた。

手に持っていた、そっと包んだ小さな布。


「私に・・・ですか?」


リオウは目を瞬かせた。

戸惑いと、わずかな驚き。


それでも彼は、静かにそれを受け取る。


「開けても?」


「・・・はい」


そっと開いた布の中には、精緻な刺繍で施された紋章。


「これは・・・コク家の・・・」


四角を縁取るような紋章は、かつて栄え、今は滅びた家の印。


けれどリオウの指が、懐かしそうにその縁をなぞった。


「素晴らしい・・・これを、ウイ様が?」


「はい・・・肩に取り付けられるように、紐をつけてあります」


そう答えるウイの声は、小さく震えていた。


リオウはもう一度、まっすぐにウイを見つめた。


「ありがとうございます。・・・明日、これを身につけます」


その言葉に、ウイの顔がパッと明るくなる。

花が咲くような笑みだった。


ーー可愛らしいな。


その笑顔に、リオウの胸の奥が、ふっと温かくなるのを感じた。


「・・・ご武運を、祈っています」


「ありがとうございます」


たったそれだけのやりとり。


でもウイにとっては、それだけで十分だった。

刺繍が渡せた。彼が受け取ってくれた。


ーー明日、あれをつけてくれる。


それだけで、胸がいっぱいだった。



その日の夕方、三姉妹の部屋に乳母ヨシノが現れた。


「リオウ様が面会を希望しています」


その言葉に、部屋の空気が一瞬、静まりかえる。


出陣前夜。


その大切なときに、わざわざ面会の申し出。


ーー何かを伝えたいのだろう。


机に向かって刺繍をしていたウイの手が、ぴたりと止まった。

縫い針を持つ細い指先が、わずかに震える。


伏し目がちの横顔は、感情を押し殺すように硬くなっていた。


レイはそっと目を上げ、その姉を見つめる。


ウイの気持ちを、誰よりも知っている妹は、何も言わず、そっと見守るしかなかった。


「わかりました。中庭で・・・と伝えてもらえますか」


ユウは無表情で本をパタンと閉じた。


その声に、ウイは何事もなかったようにまた針を動かし始めた。


「承知いたしました」


ヨシノが下がった後、ユウは隣のシュリに向き直る。


「シュリ、これから行きます」


それだけを言い残し、背筋を伸ばして部屋を後にした。


次回ーー本日の20時20分


出陣前、夕暮れの中庭でリオウとユウは向き合う。

「帰ったら結婚してほしい」と願うリオウに、ユウは「まだ決められない」と答える。


別れの口づけを迫るリオウ、

その姿を、母シリは静かに窓辺から見つめていた――。


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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/

兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。

すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――

そんな物語です。

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